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内田正洋 内田沙希 シーカヤックとハワイアンカヌー 海を旅する父娘の物語 photo by James Hadde

第9回 ニュージーランドのカヌー文化

 2012年10月。ヒキアナリア号は、建造地のニュージーランドからハワイを目指して航海をスタートし、タヒチ島に到着しました。それで、その後のタヒチ島からハワイ島までの航海について書こうと思っていたのですが、今回はいきなり飛んで、先日終えたばかりの最新の旅について書くことにします。私は今、クック諸島のラロトンガ島にいます。

 日本ではあまり知られていませんが、南太平洋ではホクレア号の40年におよぶ航海によって産まれた「新時代」の海洋カヌーによる文化復興が各地で始まっています。ハワイに続けと、古代のポリネシア人が太平洋を自由に航海していたことを思い出し、現代の地球環境の変化、特に海の環境の変化に対して、カヌー文化の復興が重要だという海からの視点から活発な動きをしています。その始まりのひとつがクック諸島です。なので、今回はそのクック諸島にあるラロトンガ島から、そんな話を書いてみようと思います。

 2012年の旅では、12月にハワイへ無事到達しました。そして2013年になり、半年ほど日本に戻りました。2013年に始まる予定だったホクレア号のWWV(世界周航、ワールドワイド・ボヤージのことです)が、突然1年延期になったからです。とはいえWWVに参加するためには、再びハワイに戻らなくてはならず、その年の夏が終わった頃、再びハワイに戻りました。

 もう学生ビザがないので、観光ビザで入国し、許可された1年の滞在期間中にWWVが始まることを祈っていました。そうじゃないとビザの延長をしなくてはならず、かなり大変なことになるからです。出航までの間はWWVのための準備に追われていました。結局私は、再びヒキアナリア号のクルーに指名され、ホクレア号と共に航海することになりました。ナビゲーターの見習いとしてヒキアナリア号に乗ることになったのです。

 昨年(2014年)の5月にハワイを出航したホクレア号とヒキアナリア号は、11月にニュージーランドに無事に到達しました。私はハワイ〜ニュージーランド間の海をカヌーで往復するという経験をさせてもらいました。それで12月になって日本へ戻り、日本のあちこちでWWVの意義を伝える活動をしていました。その間、ホクレア号は点検のためニュージーランドでドック入りしていました。点検が終わると次の区間は、ニュージーランドからオーストラリアを目指します。オーストラリアのシドニーへ向かい、そこから北上し、インドネシアのバリ島を経由してインド洋に入ります。ヒキアナリア号はホクレア号と分かれ、単独でニュージーランドから再びハワイへ戻る航海に出ました。ホクレア号が再び太平洋に戻ってくる頃、ヒキアナリア号はアメリカの太平洋側で待ち受け、共にハワイを目指すという計画になっています。

 ホクレア号のオーストラリアまでの区間には、私以外のクルーたちが乗り込むことになりました。ホクレア号に乗りたいという人々が多く、主要なクルー以外は、なるべく多くの人たちにカヌー航海を経験させようという意図があるからです。そこで私は、ヒキアナリア号と同型のカヌーが集まって来るクック諸島へ、別のカヌーに乗り込んで行くことにしました。ちょうど前回の原稿を書き終えた直後、4月(2015年)のことです。

 すでにニュージーランドには、ヒキアナリア号と同じモールド(型)で作られた7艘のうちの6艘が集合していました。ハウヌイ号Haunuiとテ・マタウ・ア・マウイ号Te Matau A Mauiはマオリ人(ニュージーランドの先住民です)のカヌーです。ナウロファ号Gaualofaはサモアのカヌーで、ウト・ニ・アロ号Uto Ni Yaloがフィジのカヌー。ヒネ・モアナ号は太平洋全体(パン・パシフィック)のカヌー、そしてマルマル・アトゥア号Marumaru Atuaがクック諸島のカヌーという内訳です。もう1艘、タヒチのファアファイテ号Faafaiteは、タヒチからクック諸島を目指すことになっていました。

 7艘のカヌーは、まとめてヴァカ・モアナと呼ばれています。ヴァカとは、ラロトンガ語でカヌーを意味し、モアナは海のことです。2011年、ヴァカ・モアナは、テ・マナ・オ・テ・モアナTe Mana O Te Moana(海の誇りという意味のポリネシア語)という標語の元、東太平洋を一周しました。彼らが届けようとしたメッセージは、英語だとOcean sustainability、海を維持しようとか、持続可能な海を残そうといった意味です。海の民として、誇りを持って海の環境を守っていこうという強い思いでの航海です。2012年に、ソロモン諸島で行なわれた第11回フェスティバル・オブ・パシフィク・アート(太平洋芸術祭)を最後に、ヴァカ・モアナはそれぞれのホームアイランドへ戻りました。このアート・フェスティバルは、4年ごとに南太平洋の各地で行なわれています。

 それからは、それぞれの島々で活動していたヴァカ・モアナですが、2015年の5月、テ・マナバ・ヴァカ・フェスティバルTe Manava Vaka Festival(カヌー魂の祭り)のために、再び集まることになったのです。このフェスティバルは、クック諸島が独立して50周年だということで、クック諸島のラロトンガ島で催されることになりました。クック諸島は、ひとつの主権国家ですが、ニュージーランドと自由連合制をとっている国で、外交や防衛をニュージーランドに委ねています。日本も国家として承認しています。クック諸島の人たちは、ニュージーランドにいるポリネシア系マオリ人と同じ民族です。もともとマオリ人はクック諸島から来たとも言われています。

 2015年4月17日、私はニュージーランドのオークランドへ向かいました。ここからクック諸島のラロトンガ島までの1,600マイル(約3,000キロ)を航海する旅に出ます。前年に出会ったクック諸島のポゥ(Pwo、ミクロネシア語でカヌーのナビゲーターを意味する称号です)であるアンクル・トゥア(トゥア・ピットマンさん)に誘われ、クック諸島のカヌー、マルマル・アトゥア号に乗り込むことになりました。空港には、ハウヌイ号のクルーが迎えに来てくれました。ハウヌイ号のキャプテンがクルーのために持っている家に泊まらせてもらいながら、マルマル・アトゥア号での航海の準備が始まりました。クック諸島のクルーには知り合いもいたのですが、ほとんどは初対面です。クルーの多くは、まだオークランドに来ていませんでした。

 マルマル・アトゥア号での航海は、もちろん私にとって新しい試みでした。そして新時代のカヌー文化復興の現状を知るための旅でもあります。マルマル・アトゥアという名前は、Under the protection of god、神のご加護の元で、といった意味です。マルマル・アトゥア号は、ヴァカ・モアナを建造した際、最初に造られたヴァカで、2010年に造られました。ちなみに、同じモールドで造られたもっとも新しいカヌーが、これまで私が乗っていたヒキアナリア号です。ドイツ人で海を保護する活動をしているオケアノス財団のデイエーター・パウルマンさんが、このヴァカ・モアナとヒキアナリア号を造るための資金を提供しています。ヒキアナリア号もその活動の一環としてハワイに贈られたものです。

 クック諸島のカヌー文化の復興の本格的な始まりは、1994年に造られたテ・アウ・オ・トンガTe Au O Tonga(南の霞という意味です)号でした。その昔、島々を渡るための術がカヌーだけだった時代、クック諸島は西と東から来るカヌーが出会う場所になっていたそうです。ヨーロッパ人として初めてハワイを発見した時のリーダーだったジェームズ・クック船長は、1770年頃にクック諸島を訪れています。それが、クック諸島の名前の元になっています。そして、それから200年後の1985年にホクレア号がクック諸島のラロトンガ島を訪れます。ニュージーランドへの航海の途上でした。当時のホクレア号は、太古のポリネシア人が自由に太平洋を移動していたことを学説的に証明する旅をしていましたが、その途上でクック諸島を始めとした全ポリネシア圏での、新時代のカヌー文化復興が幕を開けたのです。当時18歳だったアンクル・トゥアも、ホクレア号にインスパイアーされたひとりです。

 クック船長の一行は、太平洋を縦横に旅した際、タヒチ島の王族が乗っていたカヌーを正確に記録していました。その記録されたカヌー、ティパエルア号Tipaeruaを模したのが、テ・アウ・オ・トンガ号です。テ・アウ・オ・トンガ号をデザインし建造したのは、クック諸島の首相も務めていたトーマス・デイビス卿でした。その功績からパパ・トムと呼ばれています。さらに彼は、ツアモツ諸島から来たカヌーにもインスピレーションを受け、テ・アウ・オ・トンガ号をデザインしたそうです。それがこの新時代のカヌー文化を盛り上げるきっかけになりました。そして、ヴァカ・モアナのモールドは、そのテ・アウ・オ・トンガ号を参考にして造られています。だからヒキアナリア号のお姉さんのようなカヌーがマルマル・アトゥア号なのです。マルマル・アトゥア号での旅は、今までとはまた違う航海になると私は予感していました。

 オークランドに着いてから10日ほどは、ハウヌイ号やテ・マタウ・ア・マウイ号のクルーとも時間を共にしながら、マルマル・アトゥア号を知るための時間になりました。ヒキアナリア号よりシンプルな構造です。キッチンやトイレの場所は違い、ロープのセットの仕方や帆の違い、非常用モーターの構造も少し違うので、航海中に困惑しないように頭に入れました。それから間もなく、5日間の航海トレーニングが行なわれました。オークランドから北北西約120マイル(230キロメートル)にあるアウレレまでの往復です。この訓練で、半年間カヌーから離れて眠っていた様々な感覚を取り戻すことができました。新しい帆の仕組みにも馴染むことができました。そして長い航海を共にする前に、クルーを知るためにも、とても良い機会になりました。

 オークランドに戻ってきてから数日後、今度は陸路アウレレに行きました。ホクレア号がアウレレからオーストラリアに向けて出航したからです。久しぶりにホクレア号とキャプテン、そして数年トレーニングを共にしてきた仲間に会えたことは、新しい試みへの力になりました。ヘクター・バズビーさんにまたお会いできたことはとても光栄でした。ヘクターさんはニュージーランドの航海カヌー文化を復興させたポゥです。ニュージーランドのマオリ族を太平洋民族という意識に復活させ、ニュージーランドではとても尊敬されている方です。

 たくさんの人にお世話になり、遂に出発の時です。マルマル・アトゥア号、ハウヌイ号、ナウロファ号がオークランドから出航しました。テ・マタウ・ア・マウイ号は南にあるネピアから出ます。そしてファアファイテ号はタヒチ島からラロトンガ島に向けての旅です。ヒネ・モアナ号とウト・ニ・アロ号は都合上、今回は参加できなくなってしまったのがとても残念でしたが、5艘のカヌーと共に航海するということはとても心強く、興奮が押さえられませんでした。

 私はアイトゥタキ島(クック諸島)出身でベテランのスティーブがウォッチキャプテンを務めるグループに入り、同い年でタトゥー・アーティストのラロトンガ人ルーサー、今回初めて航海に参加するラロトンガ人カロと同じグループです。彼らと一緒に交代で舵取りをします。東太平洋を一周したテ・マナ・オ・テ・モアナ・ヴォヤージでヴァカ・モアナの総監督を務めたスウェーデン人、マグネス・ダンボルトさんのもと、弱冠22歳のラロトンガ人ジェームズが、今回初めてキャプテンを務めます。ラロトンガ人ポゥのアンクル・トゥア、ハワイ人ポゥのアンクル・チャドも乗り込みます。他にもハワイからもう1名、タヒチから1名、ニュージーランドとラロトンガから6名、全部で15名がこの旅を共にします。

 出発してから始めの6日間はサーフィンのように、スイスイと過ぎていきました。時折スコールに襲われましたが、天気には恵まれました。冬の始まりの南半球だったので、少し肌寒かったのですが、寒波には遭わずに進みました。ニュージーランド付近での海で好きなことの一つは、ビンナガマグロがよく釣れることです。今回も数匹釣れました。よく父が、「ビンナガマグロは、ツナ缶にするぐらいしか価値のない魚だった」と言っていましたが、私は小さい頃から大好きな魚です。見た目もマグロの中で一番かわいく、脂ものっていて、初めて釣ったときは醤油もつけずに食べてしまいました。

 そうしているうちに雲一つない青空になりましたが、同時に風もなくなってしまいました。キャプテンに帆を閉じろと言われました。なんで帆を閉じてしまうのかと思っていると、ザブーンと音がし、みんなが海に飛び込み始めました。1500キロも陸から離れた海の真ん中で泳ぐ感覚は、たまらないものです。空と海が同化したかのようで、宇宙に浮かぶというのはこういう感じなんだろうか、と思えるほどでした。心も体も洗われたような新鮮な気分になりました。カヌーに戻ると、これからの3日間についてキャプテンから話がありました。40〜50ノット(秒速だと20〜25メートル)の風の嵐が来るとのこと。こんなにいい天気で、風すらまったくないのに、信じられない気持ちでしたが、こういう予測ができることが、伝統的な航海術では非常に重要です。精神的にも肉体的にも準備するように言われました。話が終わる頃、現実に風が吹いてきました。

 そして、嵐がやってきました。暴風雨です。風が強すぎるため、面積がもっとも小さい帆に替えましたが、それでも今まででもっとも速くカヌーは進みます。レインジャケットを着ていても全身水浸しです。少し惨めになりましたが、めげてはいられません。私の寝床はカヌーの前の方にあったのですが、大波を越えるたびに、カヌーが空中に浮かび、再び落ちるので、ジェットコースターに乗っている感じです。ベッドから落ちそうになり、まったく眠れません。

 そんな状況での舵取りは大変です。太陽も星も月も見えない状況での航海は、かなり不安になります。でも励まし合い、助け合いながらの過酷な状況は、確実に私たちに経験と自信を与えてくれました。嵐が来て3日目の夜は、不思議なことが起こりました。カヌーは雷雨に囲まれていたのですが、雷がカヌーに落ちることはありませんでした。雷がわざわざカヌーを避けてくれているような、そんな感覚です。雷にも意志があるとさえ思えたほどです。クック諸島を一緒に目指している他のカヌーも気になりましたが、彼らも無事に嵐を抜けていました。

 暴風雨が収まった夜明け、水平線が明るくなり太陽が顔を見せました。当たり前に昇って、沈んでいく太陽ですが、その3日間はまったく姿を見せませんでした。この時の太陽が顔を見せた瞬間は、決して忘れられないような美しさでした。太陽が昇った瞬間、みんなの顔にも笑いが溢れていました。これだから航海はやめられない、そんな瞬間です。陸では決して体験できないような瞬間との出会いは、人類が初めて海へ出ていった頃から続く、航海民にだけ与えてくれる特権なのかもしれません。

 嵐は過ぎましたが、うねりは残っています。そのうねりが、カヌーを前へ前へと押してくれます。あの大きなカヌーでのサーフィンは最高に楽しいものです。時折、10メートル近くの大波が近付いて来る時はかなり緊張しますが、うまく舵取りをして、そのうねりを捕まえると、大きなカヌーがサーフィンをして滑っていくのです。

 そんなうねりがなくなった頃には、再び風もなくなってしまいました。前日までのうねりと風が続けば、クック諸島のラロトンガ島までは1日か2日で到達できたのですが、帆を目一杯開いても、潮の流れで押し戻されるような状況でした。先日の嵐が、ウソのように感じていました。こういった変化が、自然が持っている力なのだと心から思います。とはいえ、ラロトンガ島まではあと数日です。このクルーたちと一緒にいる時間も残り少なくなっています。みんなもそれぞれが、この時間を大切にしていることが理解できました。こういった瞬間もまた貴重な時間です。人とのつながりや絆をカヌーでの航海は、強く教えてくれます。

 そんな時、ふとクジラがいることに気付きました。カヌーの近くに2頭のクジラが泳いでいます。ミンククジラでした。私たちの気持ちを察したのか、また来いよとでも言っているかのように、数時間もカヌーと一緒に航海をしてくれました。

 そして、いよいよ朝日の中にラロトンガ島が姿を現わしました。興奮がクルー全員に沸き起こり、またひとつの旅が終わろうとしている瞬間でした。ハワイで学んだことに加え、私はクック諸島やニュージーランドのカヌー文化の復興もまた、素晴らしいことだと感じ、それに触れることができて本当に幸せでした。この経験が自信を与えてくれたことも間違いありません。今、ラロトンガ島でこの原稿を書いていますが、あと1週間もすれば(2015年8月中旬)、再びカヌーでニュージーランドを目指して旅をします。

(2015.08.14)

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