第2回 全米トップ40 その1
1973年(昭和48年)、千葉県の市立中学校2年生だった私は、ある日卓球部同僚の片山から『全米トップ40』の存在を知った。当時ラジオ関東(=現ラジオ日本)で毎週土曜日の夜10時から放送されていた『全米トップ40』は、最新の全米チャートをアメリカの原盤番組を基に湯川れい子さんが解説をのせ紹介するというものだった。部活の朝練習や日曜練習にも熱心だった私は、週末夜はバタンと眠ってしまったので、容易に聴く習慣がつかなかったが、74年5月の「ロコモーション」(グランド・ファンク・レイルロード)や6月の「バンド・オン・ザ・ラン」(ポール・マッカートニー&ウイングス)のNo.1は仄かに記憶にあるので、その前後から少しずつ接し出していたはずだ。 中3になって部活も引退し、高校受験に向けてぼちぼち勉強に最も集中するべき時期に、番組が自分の生活の中で決定的に重要な存在になるきっかけが訪れた。1974年12月の終わり。『全米トップ40』がいつもの内容と違うことに気づく。 1年のヒットの総決算となる年間チャートの発表だった。衝撃はそのトップ3である。第3位「愛のテーマ」(ラヴ・アンリミテッド・オーケストラ)、第2位「そよ風のバラード」(テリー・ジャックス)。チャチなポータブル・ラジオのスピーカーから流れてきた、まずそれら2曲があまりに魅力的でぐいぐいと惹き込まれ、我を忘れた。そして第1位ー1974年という年すべての全米ヒットの頂点に立ったのが、バーブラ・ストライサンドの「追憶」だった。 かつてカーペンターズの「シング」をラジオで初めて耳にしたときと同様の、言葉にし難い不思議な感情の波が再度、胸に広がっていったのをしっかり憶えている。上位3曲が、まったく異なるタイプの、それぞれがとてつもなく美しく、聴くものの心を捉えずにはおかない素晴らしい曲だったのに加え、その順で並んでいたことが大切だった。それこそがラジオのマジックなのだ。建物や自動車などの造形物において生じる感覚的なシェイプやフォルムからの抜群の閃きや特別な吸引力に通じるのが、ヒット・チャートのトップ3、あるいはトップ5やトップ10の”並び”から発せられる魔法であり、それを感じた人は繰り返し何度も味わいたくなるものなのである。こんな音楽が世の中にたくさんあるのだったら、可能な限り聴きたいー単純に私は、そう強く感じた。 1975年(昭和50年)1月からは番組を欠かさず聴くようになる。一方、高校でも卓球部でたくさん練習できるようにと最も通学距離の近い県立校に運良く入れた私は、コンカンコンカンとピンポン玉を打ちながら、週末は『全米トップ40』を聴き、チャートをノートに記録し始めた(後年、この番組のリスナーだった多数の人々も同様のノートをつけていたことを知る)。耳にしたそのままカタカナで曲名/アーティスト名を順位と一緒に書き、余白に湯川さんのコメントをメモした。 より正確に記録するため、しばらくして3時間番組を60分と120分のカセット・テープに丸まる録りだす。オートリバースなどなかったので、時間が来ると手動でひっくり返し入れ替えた。使い回していくそのテープを、平日毎晩聴きながら眠った。ポップスの睡眠学習法である。チャートで気に入った曲のシングル盤を一ヶ月に1枚くらい買い、さらに好きになった場合、小遣いを貯めてLP盤を集めた。バリー・マニロウやエリック・カルメン、ピーター・フランプトン、ブルース・スプリングスティーン、ボストン、ジャーニー、フォリナーらは、みなこの頃ファンになったスターたちだ。 番組リスナーとしての熱中のピークは1975年で、夏の林間学校にもラジオを持っていき、夜、枕が飛び交う中をひとり必死にチューニングを合わせて、ウイングスの「あの娘におせっかい」が1位になったことに狂喜した。同年11月に風邪で高熱を出してフラフラになりながらテープを入れ替えたときの1位は、KC&サンシャイン・バンドの「ザッツ・ザ・ウェイ」だった。このマイ・ブームはほぼ3年間冷めず、77年夏に部活を引退するころ、エルヴィス・プレスリーの訃報が届き(このときの『全米トップ40』での湯川さんの言葉はラジオが伝える力の大きさを改めて私に刻み込んだように思う)、大学受験に向けて再びぼちぼち勉強に最も集中するべき時期に入った秋、当時アシスタントDJだったチャッピーこと山本さゆりさんが卒業し、後任を一般リスナーから募るという企画が『全米トップ40』で告げられた。
もうちょっと、つづく
(2013.10.04)