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第12回 ケイシー・ケイスンを、忘れない

CASEY KASEM
(Special Thanks to GRAND-FROG STUDIO)

 ラジオ番組のホストとして名高いケイシー・ケイスンさん<以下ケイシー>が、2014年6月15日にワシントン州ギグ・ハーバーのセント・アンソニー病院にて、永眠した。彼は『AMERICAN TOP40』<以下AT40>の初代ディスク・ジョッキーであり、訃報が伝えられるとネット上でも幅広い世代の人々から様々な形で追悼の気持ちが示されて、いかに深く、そして長く愛された“声”であったかを伺わせた。

《to begin with そもそも》

 AT40は、もちろん日本における『全米トップ40』の原盤であり、第2回/第3回で述べたように、私がこうまでラジオと洋楽のファンになったのも、ディスク・ジョッキーを生業とするに到ったのも、すべてその番組があったからだ。これまでの人生で、誰の話す英語を一番耳にしたかといえば、きっとケイシーだろう。
 『全米トップ40』を通じて、初めて本場アメリカのディスク・ジョッキー・スタイルに触れ、その軽妙さとあまりに自然に伝わってくる説得力に、もちろん外国語の壁のため詳細まで理解出来なかったにもかかわらず、とても惹きつけられたのである。洋楽ポップスなる興味関心ある題材ゆえに、到底追いつけず解析不可能なネイティヴの英語に対して何とか言っていることを知りたいとひたすら集中した。
 中学2年頃には他学科での学業的な大望をほぼ断った私が、英語とだけは何とか向き合えたのは、もちろん岡先生、洋楽ポップス、そしてラジオとケイシーの存在があったからだ。75年から番組を聴きながらつけ続けた全米チャート・ノートは、今も手元に残っている。
 

《for the record 来歴》

 ケイシー・ケイスン、享年82。本名ケマル・アミン・ケイスン。1932年4月27日、ミシガン州デトロイト生まれ。父はレバノン人で母はレバノン系アメリカ人。ノースウェスタン・ハイスクール時代の学校放送でのスポーツ担当がラジオ・デビュー。ウェイン・ステイト大学で『ローン・レンジャー』などのヒーローの声をラジオ・ドラマで演じた。ミシガン州フリントのWJBKでの仕事の後に、52年に陸軍に徴用されると韓国に向かい、米軍放送でアナウンサーを務める。除隊後、60年代にデトロイト、サンフランシスコ、オークランド、バファローやクリーヴランドのステーションでディスク・ジョッキーを担当。オークランド時代にアーティストのエピソードを曲の前に述べるスタイルが人気を博した、とされる。63年にロサンゼルスのKRLAに移ると共に、地元TVの仕事でディック・クラークに認められ、64年にクラーク制作によるTVショー『SHEBANG』にレギュラー出演する。そのKRLA時代にもまた、午後の時間帯で担当していた番組にて、紹介するレコードの作者や歌手たちの以前の職業や兵士だったといったエピソードに触れ、歌い手やソングライターを身近に感じさせたそうだ。

 彼の名を一躍轟かせたのが『AMERICAN TOP40』である。アメリカの公式ヒット・チャートという認識が強い、音楽業界紙=ビルボードのHOT 100に則って40位から1 位を毎週紹介するラジオ番組である。ヒット曲のカウントダウン・ショー自体は50年代のTVでも存在していたが、ビルボードのランキング紹介をラジオで長時間に亘って全国展開するものはなかったという。70年7月4日のアメリカでのAT40スタート時からディスク・ジョッキーを務め、88年8月6日付けの発表分まで担当し、その座をシャドー・スティーヴンスに譲る。

 ラジオ・ショーの他、俳優業やTVアニメ『スクービー・ドゥー』のシャギーや『セサミ・ストリート』などのヴォイス・アクター=声優、英語教材のナレーターとしても知られた。またTV版のカウントダウン・ショー『AMERICA’S TOP 10』も担当。81年4月にはハリウッドの名誉の舗道に彼の名の星が敷かれ、84年の映画『ゴーストバスターズ』には自身の役で出演。

 89年1月から、AT40にとってライバル番組となる『ケイシーズ・トップ40』がスタート。その制作会社ウェストウッド・ワンとは5年=1500万ドルが契約条件とされた。95年に本家AT 40自体が一旦終了。98年3月、ケイシーがカムバックしAT40が再開。04年1月まで担当し降板。ライアン・シークレストが後任となり2014年8月現在も継続。ケイシーはその後、ACチャートの『AMERICAN TOP 10』とSOFT AC チャートの『AMERICAN TOP 20』といったプログラムを担当。09年7月4日(*5日とする資料も)に、担当していたそれらのカウントダウン番組を降り、ラジオ業界を引退している。

 2013年10月、娘のケリがケイシーのパーキンソン病を公表。それからおよそ8ヶ月後の訃報となった。なお、AT40は、元KHJのプログラム・ディレクター=ロン・ジェイコブスが局の幹部だったトム・ラウンズと共に立ち上げたとする記述もあるが、そもそもケイシー自身とドン・バスターニの発案だったともされている。ケイシー降板後も、今日まで番組のエンディングには”AT40 is created by CASEY KASEM AND DON BUSTANY”とナレーションされるのは、それゆえであろうか。
 

《keep your feet on the ground and keep reaching for the stars
 明日に向かって》

 89年以来、縁遠くなっていたラジオ日本で、10年秋から再び『全米トップ40 THE 80’S DELUXE EDITION』を私が担当しているときに、ケイシーの訃報が届いたのにも不思議な巡り合わせを感じる。ケイシーの死を悼み、番組ブログに追悼文を寄せた際に、私がディスク・ジョッキーとしてケイシーから受けた影響について考えてみた。

 AT40にてケイシーは自身のラジオ・パーソナリティー的な側面を打ち出すよりも、曲とアーティストの紹介に技量を注力するスタイルを貫いていて、結果的にそれが最大の個性になっていたように思う。海外サイトなどでいくつかの追悼記事をみていて目に留まったのは、<ケイシーの>“曲やアーティストに関するトリヴィアを語り、CMを挟んでその正体を明かす手法がその後一般的になった”というところだった。

 あっ、と思った。私が担当した番組で採っているのも、まさしくそのスタイルだったからだ。曲を紹介する際に、曲名や歌手名は敢えて先には述べず、聴き手に誰の何という曲なのかを類推させてから最後にそれらを口にして曲をカットインする。あるいは“~それが、この曲!”というようにタイトルを伏せたままオンエアして、後で言ったりする。場合によっては鼻につくこうした紹介の仕方を意図的に行なっているのも、AT40を通じてケイシーのやり方が耳と心に刷り込まれていたからだと、つくづく感じる。

 だが、ケイシーとAT40から受け取ったものはそうしたディスク・ジョッキーとしての方法論に留まらない。より原点に近いものだ。それは簡単に言うと“解ることのすばらしさ”である。知りたいと思ったことにたどり着いたときの格別な感情や到達感。それらに突き進む気持ちを、ケイシーが番組で繰り出す英語ナレーションは掻き立てた。ケイシーの英語を理解しようと奮闘した末に得られた知識は、そのまま自分の力で理解したように、その曲の魅力を味わうのに直結したからこそ限りなく愛しいものになった。

 大げさな物言いになるが、その感動が起点となり何かを好きであり続け、いかなる未知に対しても常に前向きに取り組む力の礎になったのである。ケイシーが毎回番組の最後に贈り続け、かつての『全米トップ40』で湯川れい子さんが見事な日本語にしてくれた言葉通り“地面にしっかりあんよを着けて星に手をさしのべて”、きっと元気で人生を生き抜くのだ。

 これからの日々においても、AT40で大好きになったヒット曲の数々を耳にするたびに、私の頭の中にはケイシー・ケイスンのあの声が甦る。
 ケイシー・ケイスンを、忘れない。

(2014.8.21)

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