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第11回 ある日のスタジオから エピソード2~「星影のバラード」の謎 <後編:星影の散歩道>

ボビー・ヴィー
「Rubber Ball」「Take Good Care of My Baby/サヨナラ・ベイビー」など
ヒット曲がディスク2枚に収録されたベスト盤

 「More Than I Can Say」を最初にヒットさせたボビー・ヴィーは、43年4月30日生まれ、ノース・ダコタ出身。本名ロバート・トーマス・ヴェリン。59年にミネアポリスのマイナー・レーベル=ソーマから発売した「Suzie Baby」を、リバティ・レコードが原盤権を買い上げて全国展開したところ、全米第77位の初ヒットとなり同社と契約。60年にアダム・フェイスの「What Do You Want?」(全米第93位)に続いてクローヴァーズの「Devil Or Angel 天使か悪魔か」(同第6位)とカヴァー・ヒットを続けて浮上。さらに「ラバー・ボール」も全米第6位まで上昇してスターとなる。その次に発表したのが61年の「Stayin’ In 恋のダブル・パンチ」で同第33位。アメリカでそのシングルのB面だったのが「More Than I Can Say」でこちらも同第61位となっている。ボビーはその後も「サヨナラ・ベイビー」(61年全米第1位)や「燃ゆる瞳」(62年同第3位)といったポップ・クラシックとなる大ヒットを放つ。

 そして、ここ日本で「ラバー・ボール」のシングルB面に収められたのが「モア・ザン・アイ・キャン・セイ」だった。ボビーがこの曲を歌ったのには背景がある。15歳だったヴェリン少年はノース・ダコタ州ファーゴでロックン・ロール・スターたちのレヴューを心待ちにしていた。だがそれはある悲劇で中止になりかけた。地元ラジオが呼びかけた代役出演に、まだ名前も決まっていなかった自らのバンドにその場でシャドウズとつけ申し出て、見事代役を果たし、それをきっかけに本格的にプロの道を歩み出す。悲劇とは59年2月3日の飛行機事故であり、予定されていたスターとはバディ・ホリーとザ・ビッグ・ボッパー、そしてリッチー・ヴァレンスだった。ホリーに心酔していたボビーは、まるで導かれ、託されたかのようにこの世界に入った。シャドウズと共にレコーディングした自作の「Suzie Baby」は、ホリーの「ペギー・スー」へのアンサー・ソングだった。

 「More Than I Can Say」をアメリカで最初にヒットさせたのはボビーだが、最初に録音したのは彼ではない。作者はジェリー・アリスンとソニー・カーティス。すなわちバディ・ホリーの僚友であり、クリケッツのメンバーだ。59年に事故でホリーを失った直後にクリケッツとして録音され、60年のアルバム『IN STYLE WITH THE CRICKETS』で発表。5月にイギリスの小売店チャートで第42位を記録したという記述もある。ボビーは、自分の道を拓いてくれたという想いがあったのか、「What Do You Want?」のシングルB面にソニー・カーティスが書いた「My Love Loves Me」を取り上げており、さらにクリケッツの曲「More Than I Can Say」をカヴァーしたのであろう。なお、ボビーが引っ越したロサンゼルスのアパートにクリケッツのメンバーが住んでいたり、クリケッツもボビーと同じリバティ・レコードに移籍するといったことも重なり、クリケッツにボビーが自作曲「I’m Feeling Better」を提供するなどの交流が深まり、62年にはクリケッツとの共演アルバム『ボビー・ヴィー・ミーツ・ザ・クリケッツ』も制作されている(ジェリー・アリスンはいたがソニー・カーティスは兵役のため不参加)。

 ボビーが「モア・ザン・アイ・キャン・セイ」を歌わなかったら、レオ・セイヤーもそれを取り上げることはなかったであろう。奇しくも「アメリカン・パイ」(連載第6回第7回参照)同様、「星影のバラード」もまた59年2月3日の事故がなければ生まれなかったヒットなのである。なお、ボビーは70年代には本名のROBERT THOMAS VELLINE名義でシンガーソングライターとしての活動も行ない、72年に『NOTHIN’ LIKE A SUNNY DAY』を発表している。

 あれ、今回は「星影のバラード」という邦題がどこからついたのかという話じゃなかったのか? ここからです。
 ”バラードの洋楽ヒット”(前回参照)から20日あまり経った2014年4月10日木曜日。夕方5時20分に生放送の仕事を終えると、私はそこからすぐ近くにある東京・渋谷のNHKホールへ、バート・バカラックの公演を観に行った。開演前にばったり会ったのがKさんだった。Kさんはレコード会社にいらした折にとてもお世話になった人物で、去年13年にヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースの『SPORTS』30周年記念盤ライナー執筆の仕事で、当時の担当ディレクターとしてのお話をうかがうために再会していた。その時の御礼を述べていて思い出した。ヒューイもレオ・セイヤーもクリサリス・レーベル所属、つまりKさんの担当だったはずだ。

 唐突かつ即座に”レオ・セイヤーのあの曲に「星影のバラード」とつけたのはKさんですか?”と訊ねると、”そう”という答え。どこにもなかった”星影”の謎も含め、ボビー・ヴィーの時は原題のカナ表記だったものを変えて、わざわざオールディーズ調をつけたのはなぜかと重ねて問うと、意外な返答が得られた。Kさんのいらしたレコード会社がかつて発売していたアリスタ・レーベルに、名女流アーティスト=ジェニファー・ウォーンズが所属していた。Kさんは、彼女が77年に放った「Right Time Of The Night」(全米第6位)を大好きだったそうで、その曲に当時の担当ディレクターによってつけられた、本当に素敵で味わい深いタイトルにあやかって、レオ・セイヤーの「More Than I Can Say」に”星影”を用いたのだそうだ。その邦題が、「星影の散歩道」なのである。

ジェニファー・ウォーンズのベスト盤
映画「ダーティ・ダンシング」や「愛と青春の旅だち」の主題歌で知られる
ジェニファー・ウォーンズのベスト盤

(2014.7.16)

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