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第9回 過去との再会 <後編 : O先生のこと~あるいはディスク・ジョッ キーへの発火点>

 <前回より続く>

 O先生と出会ったのは、72年4月。入学した八千代中学の女性教諭だった。早めに述べておくと、これは年上の女性に色気づいた中学男子が初恋のトキメキを覚えた、というような話ではない。記憶を辿ると私も小学校低学年のころ、ごくありきたりに特定の異性に関心を抱く普通のマセた小僧であったが、中1の時点でも艶かしい意味での恋愛感情は未だ理解していなかったように思う。

 O先生は、ショートカット(むしろオカッパ)で小柄な、ワンピースをよく着ておられた人で、性格はとてもサバサバでテキパキ。無礼を承知で喩えると、天才・赤塚不二夫先生の名作『おそ松くん』のキャラクター=チカコの雰囲気だった。O先生は、私に人生で初めて英語を教えてくれた人である。当時すでに小学生向けの英語塾は多数存在し、仲が良かった工藤も通っていたが、現在の受験競争において有効な道具への予備学習的な捉え方よりもソロバンや習字に近いものだった気がする。実際、小学校高学年で英語を始めても、中学に入ってからとりたてて得意になるわけでもなかったようだ。むろん、私は関心すらなかった。

 ところで、仙台市に住んでいた小3くらいまでは、私は比較的勉強のよくできる子供であった。妙に要領の良さを体得していて(=次男の特性)、家での予復習はほぼせず、むろん塾などにも行かず、授業だけの労苦でまあまあの成績をあげていた。それが千葉県の中山小学校に転校した小4時に、だんだん高度になってきた教科、特に理数ものに苦手意識がついて、5年生で八千代に移ったころはまったくありきたりの凡才男子になっていた。6年生あたりでゲーセンに併設された卓球場に行き出した(先述)ので、さらに勉強しない子供になる。
 そして、中学である。もう一度勉強のできる子に生まれ変わる、とてもすてきな仕切り直しタイミングでありながら、ますます卓球に入れ込んでいく。そんなときまったく新しい教科として向き合ったのが、英語であった。そこで登場して下さったO先生の、明るく闊達なキャラクター全開の授業スタイルは、未知の科目への警戒心や嫌悪感が生じる隙を許さず、ABCの初歩からひたすら楽しくパッショネイトで、興味を持続・増幅させるとても見事なものだった。そのお陰で勉学ではなく、接していてわくわく夢中になれる対象の、いわば非常に面白い遊びに近い感覚でアルファベットに臨めた。O先生に褒められるのはとてつもなく嬉しく、俄然気分が高揚した。そんな日々の中で、ラジオでカーペンターズの「シング」を耳にするのである。

 2年生まで受け持っていただき、3年時には学級担任のベテラン男性教諭に替わって英語を学ぶことになった。すっかり卓球ラジオ小僧になって洋楽を聴きながらピンポン玉を追う、あい変わらず凡庸な15歳だったが、英語だけは好きな科目であり続け得意だとすら思っていた。やがてO先生のことを次第に忘れ、75年、私は中学校を卒業した。

 2013年11月、東京・東銀座。”O先生は?” 同窓会の分科会的な集いでの話題で、40年ぶりにその名前を耳にして、中学卒業後の短くない時間の経過の中で、私にとってラジオが、洋楽が、そして英語が果たしてきた意味合いがひとつになっていくのと同時に、それらすべてが先生との出会いに結びついた気がした。
”あ、O先生に会いたい” 数人が賛同するに留まったにも関わらず、このベクトルはもう少し先に伸びる。分科会の席も主導してくれた清水が、たまたま賀状のやり取りを続けていたことから俄に話が動き、有志男女4人が東京・新宿でO先生をお招きする機会を得たのが、2014年3月29日。私の願いは叶った。40年近くご無沙汰していたO先生は驚くほど変わらず、小柄でエネルギーにあふれていた。ひたすら嬉しかった。数時間の楽しい刻が過ぎ、またの再会を祈念しつつ席は閉じた。先生は八千代中学の後、なんと数教科の別の科目の教鞭を執り、美術に取り組み、現在もダンスに邁進されている、パッショネイトな人そのままだ。それを知ってさらに合点がいくことがあった。

 O先生の英語授業が私を惹き付けたのは、彼女の生き方が映し出されていたからなのではないだろうか。歓びや情熱が、特別な波動となって、あまりモノを考えずにボウっと生きていた私を直撃したのだと思う。教えてもらったというよりも、受け継がされ植え付けられたというのに近いかもしれない。教育とされている行為が誰かの歓びや情熱を受け継がせるものならば、それが理想のような気がする。先生との出会いが、その後のおもしろい生き方に結びついたことへの御礼の気持ちを(これも30年ぶりくらいにちゃんと便せんに)したためた手紙と、近所で買ったクッキーを別れ際に渡した。これもラヴレターだなあ、と感じながら。
 
O先生は、キャラ通りのシャキシャキとした歩調で、新宿の雑踏に消えて行った。

(2014.05.19)

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