TOP > COLUMN > HOLA R♡ADIOS 〜矢口清治のラジオDJ的日々〜

こんにちはさようならHOLARADIOS~矢口清治のラジオDJ的日々~"

第8回 過去との再会 <前編 : 自分は誰だったのか>

 2013年5月4日夕刻、前回いつ訪れたのかが思い出せないほど久しぶりに、私は千葉県の京成線八千代台駅に降り立った。ここは故郷のひとつだ。44年前となる小学5年生から、27歳(遅っ!)で親元を離れるまでのおよそ16年間を過ごした町である。その日、行方不明が長く続いていたらしい私にちょっとした伝手から連絡がつき、小・中学校の同窓会が開かれるのを知って舞い戻ったのだ。

 八千代市民羨望(冗談です)の”八千代エリートコース”(市立八千代台小学校→市立八千代中学校→県立八千代高校)を駆け上った私は、物心つくまでの人格形成期に貴重な時間を共に過ごした幼馴染みとの再会がすごく楽しみだった。というのはけっこう嘘で、没交流期間が長過ぎてはたして相手を憶えているかこちらは憶えられているのか、実に覚つかない。こんなんで話は盛り上がるのであろうか?

 盛り上がった。こういう(長く会わなかった、しかしかつて相当の密度で接点があった人たちと顔を合わせる)ケースに遭遇したことのある人なら経験済みでしょう。すべては杞憂で、少なくなく変わった容貌(個人差があるのは否めないけれど)を差し引いても、すでに10歳という年齢に達していた男女の面影はしっかり残り続けているものだ。わずかな時間の経過でよそよそしさは霧散し互いに打ち解けると、思い出話に枝も茎も曲がりそうなほど大量の花が咲き乱れた。中庭の花壇の形や、冬期のストーブで炊いたコークスの色、極端に薄くて”白の絵の具”とか呼んでいた給食の牛乳など、当事者間でのみ成立するおもしろさも度を越すと周辺に波及するーそんな現象はラジオ番組でも起こることだと感じる。

 まったく別々の人生を過ごしていた空白の期間に大きな意味を見出したのは、相手の記憶の中にいる自分がその当時の私のままでいることだ。10代にさしかかり、自我の何たるかも解らぬまま不可解な葛藤の日々を送っていた私は、どんな人間だったのだろう?その頃の日記があったとして、それを読み返したとしても難しいかもしれない。そもそも自分を客観視する術など(おそらく現在も)持ち合わせていなかったのだから。同級生に映っていた自分の人物像の欠片を知ったー同窓会で得た最も大きな発見がそれだ。その人物は自分では決して認識し得ない、真実の私の一部だったはずだ。自分はいたってまともで普通の人間だと思っていた。だが、会場で再会した中学時代の友人だった菊原さんから、”こんな変わった人、見たことないと感じていた”と聞いて愕然とした。当然どこがどのようにどれくらい変だったのかの説明も求め、幾ばくかの理由を聞いたはずだがショックのあまり朦朧となりよく憶えていない。ポップスやラジオ、そして卓球部活動に多少ストイックな姿勢(→悪くない言い方)があったかもしれないが、よもや変人視されていたとは…

 小中合同だったためかやや喧噪が過ぎたこともあり、それから半年を経た13年11月、もう少しこじんまりとした集いが、東京・東銀座で有志男女6人で開かれた。今だから会いたい先生がいるか、という話題で数人がある女性英語教諭を挙げた。その名前を耳にして瞬時に私は言葉に出来ない感慨に襲われた。
そして、O先生に猛烈に会いたくなった。 

<後編: O先生のこと~あるいはディスク・ジョッキーへの発火点>につづく

(2014.04.18)

前の記事へ 次の記事へ

過去の記事索引はこちら

COLUMN

Buisiness TODAY” 
東京 鳥 散歩” 
シェルパ斉藤の“ニッポンの良心” 
こんにちはさようならHOLARADIOS〜矢口清治のラジオDJ的日々〜” 
きっこうのハッピー・ゴー・ラッキー人生 〜セカンドライフを社会貢献で楽しむ徒然日記〜
内田正洋 内田沙希 シーカヤックとハワイアンカヌー 海を旅する父娘の物語
ムーンライトジョーカー 三浦麻旅子
スタッフ募集