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その十 「日本最後の秘境で、良心くん最初の負傷!?」

 知床半島や西表島、トカラ列島など、『日本最後の秘境』と呼ばれる場所はいくつかあるけれど、本物はここだと思う。
 北アルプスは黒部源流の雲ノ平(くものたいら)(*註)。最も近い登山口である富山県の折立口(おりたてくち)からでもコースタイムは10時間を超える。延々と続く登山道を一日以上歩いていかないことには到達できない山深い場所にあり、歩いてしかいけない遠い場所であるがゆえに手つかずの大自然がそこには残っている。
 黒部渓谷に囲まれた要塞のような雲ノ平から眺める風景は圧巻だ。雲上の楽園と呼んでもいいかもしれない。薬師岳(やくしだけ)、黒部五郎岳(くろべごろうだけ)、鷲羽岳(わしばだけ)、水晶岳(すいしょうだけ)といった名峰が東西南北にそびえ、広々とした溶岩台地にはチングルマやコバイケイイソウなどの高山植物が咲き誇る「アラスカ庭園」や「スイス庭園」「ギリシャ庭園」などと名づけられた景勝地が点在する。
 折立から歩いてきた僕は、最初の景勝地アラスカ庭園でバックパックに入れた良心くんを取り出した。
「やば! 足がとれてる」
 フリース素材の良心くん専用収納袋(妻が良心くんの旅用に製作してくれた)に入れて慎重に運んできたつもりだったが、長時間の歩行で出っ張った足に負担がかかったのか、それとも雲ノ平の直下、薬師沢からのきつい登り坂で枝にぶつかったのか、良心くんの右足がぽろりととれていた。
 木工ボンドがあればすぐに修復できるが、そんな装備を持参している登山者はいない。とれた足を足元に置いてアラスカ庭園の良心くんを撮影したが、足がないから安定が悪くバランスをとりにくい。転びそうな状態になったものだから、胴体を支えたら重量のある頭がぽろりととれて、地面に転がった。
 慌てて拾いあげたが、良心くんの顔には泥がついている。急いで手ぬぐいを出して拭いたけど、足はとれるわ、頭を転がるわ、で良心くん受難の連続に思わず笑ってしまった。

 雲ノ平がすばらしいのは自然だけではない。
 ここにはとびきり美しい山小屋が建っている。その名も雲ノ平山荘。建物としての美しさは日本一、といっても過言ではない。外観だけではなく、中身のつくりがすばらしいのだ。
 室内には巨大なコメツガの梁が鎮守の神のように収まっている。巨木の存在感に圧倒されるし、手作業で表面を削り、寸分の狂いもなくぴったりと継いで収めた名工の職人芸にも感嘆するだろう。
 僕はこの山荘が完成した2010年に訪れ、弱冠30歳のオーナー伊藤二朗さんと語り合っている。
 なぜ建築が困難なこんな場所にこれほどまでの建築物をつくる必要があったのか。新建材を使って楽に建てる方法もあるのに、手間もお金も膨大にかけて(おそらく数億円かかっているはず)、雲ノ平山荘を新築する理由はなんなのか。その問いに伊藤さんは「原野が理想なんです」とだけ答え、多くを語ろうとはしなかった。
 おそらく、雲ノ平のような地球の崇高さを感じさせる奇跡的な場所には、そこにふさわしい建物、芸術的に融和した作品でなくてはならないという思いがあったのだろう。言葉で語るのではなく、たたずまいがメッセージを伝えてくれるような山小屋、さらに百年後も健在であろう建築物を伊藤さんはこの地に建てたかったんだと思う。

 その2010年以来の訪問となる雲ノ平山荘だが、着実に進化していた。きっちりつくられた階段や、職人に特注して焼いてもらったタイルを使った流しなど、随所に伊藤さんのこだわりが見られて頬が緩んでしまう。
「なんですか、それは!」
 伊藤さんは僕が連れてきた良心くんを見て、笑顔になった。木工や芸術が好きな伊藤さんならきっと良心くんを気に入ってくれると信じていたが、思ったとおりの展開である。伊藤さんは良心くんをじっくり見て「いいですね、これ」としみじみと言った。
「ところで、木工ボンドはありませんか?」
 僕は良心くんの足を伊藤さんに見せた。すると伊藤さんは「じゃあ、僕が直しますよ」と、足の接着面を丁寧に削り、木工ボンドがより接着しやすいように細工をはじめた。そして適量の木工ボンドを塗布したあと、木片などを使って固定してしっかり圧着。
「夕方にはくっついているでしょう」と、完全なる治療を施してくれた。おそらく足がとれる以前よりも、良心くんの足は強くなったと思う。

 雲ノ平山荘で過ごす時間は、優雅に流れていく。食堂にある大きな窓は、山岳風景を切り取る額縁の役割も果たす。伊藤さんのことだからねらったのかもしれないが、名峰の黒部五郎岳が額縁にぴったり収まるサイズで窓が設置されている。天然の美術館のようなたたずまいなのである。
 さらに音楽好きな伊藤さんは山荘内にいつでも良質な音楽を流している。この日はビル・エヴァンスのピアノ。雲の流れを眺め、日の傾きとともに変化する空の色を楽しむ。日本最後の秘境も、ここ雲ノ平山荘で過ごしていると、おとなのぜいたくな趣味に思えてくる。
 ここなら1週間滞在しても飽きることがないだろう。となれば困るのは、風呂に入れないことだが、この雲ノ平の近くにはおそらく日本で最も山深い場所にあるであろう温泉があるのだ。
 翌日はその温泉に良心くんとともに出かけることにした。(つづく)

photos by sherpa saito

(*註:雲ノ平)日本で最も高い所にある溶岩台地。標高は2500〜2700メートル。

*雲ノ平山荘 http://kumonodaira.net/kumonodaira/index.html

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