その十一 「良心くん、秘湯中の秘湯であわやセクシー写真!?」
日本最後の秘境と呼ばれる雲ノ平(くものたいら)から2時間近く歩いた谷あいに、高天原(たかまがはら)(*註)がある。
高天原と聞いて、日本神話や古事記を連想する人もいるだろうが、こちらの高天原には温泉の神様が住んでいるかもしれない。
『からまつ露天の湯』と名づけられた極上の温泉が渓流沿いにあるのだ。そこには『日本最奥の温泉』とも書かれているが、その言葉に偽りはないと思う。最も近い登山口からのコースタイムは12時間を超える(ちなみにその登山口も人里から遠く離れた場所にある)。秘湯巡りをライフワークにしている温泉愛好家も多いが、高天原の温泉は登山のスキルと体力、それに時間がなければ入浴できない。本物の秘湯なのである。
僕が初めて高天原の温泉に入ったのは、立山から上高地まで、北アルプスの核心部を1週間近くかけて歩いたときだ。雲ノ平のキャンプ場に連泊して軽い装備で温泉に出かけたが、この温泉には難点があった。
雲ノ平から出かける場合、行きは登山道を下って、帰りは登山道を上ることになる。温泉で汗を流してさっぱりしても、入浴後に登山道を3時間近く歩かねばならない。再び汗をかくことになり、温泉に入った意味がなくなってしまうのだ。
僕は汗をかかないようにできるだけゆっくり歩くことを心掛けて、雲ノ平への帰路についた。おかげでさっぱりした状態のままテントに戻ることができたが、2度目となる今回はさらに温泉を堪能できる態勢で臨んだ。
高天原の山小屋に泊まる山行である。温泉から出たあとに歩く必要はないし、沢の水で冷やしたビールを飲むことだってできる。歩いてしか行けない日本最奥の温泉に入って、湯上がりにビールを飲んで、うたた寝をする。そんな最高のぜいたくを味わえるのである。
山小屋に荷物を置いた僕は、手ぬぐいと缶ビールと良心くんを引き連れて、渓流沿いの露天風呂に向かった。
風呂は男女別になっていて、女性用は囲いがあり、男性用は開放的なつくりになっている。さらに渓流のすぐ脇にはワイルドな湯船も用意されている。
夏休み前の平日だったため、利用者は誰もいない。最初は男性用の露天風呂に入り、そのあとは渓流沿いの露天風呂に入った。
湯温は熱すぎず、北アルプスの心地よい風が吹くため、いつまでも入っていられる。調子に乗って長時間入浴していると湯あたりするだろうから、ときどき湯船から上がって渓流の脇で体を冷やす。温泉なんだから裸はあたりまえなんだけど、第三者が見ると男が渓流の岩場で素っ裸になって座り込んでいる妙な光景に映るかもしれない。
最初は照れがあったし、誰か来るかも、と思っていたから手ぬぐいで前を隠して涼んでいたが、人間は開放的な大自然に身を浸していると、次第に大胆になっていく動物なのだろう。渓流で素っ裸でいることに興奮を覚え、冷たい水の中に身を沈めたり、岩場で股を開いた状態で涼むほどになった。
そして良心くんとのセクシー写真を撮ろうと思い、良心くんの頭で股間が隠れるように、りんごヌードの麻田奈美をイメージして(わかる人にだけ、わかればいい)、セルフタイマー写真を撮ってみた。
しかし、モニターでチェックしたら我ながら呆れてしまい、良心くんに対しても申しわけない気になって、ただちに削除した。
そして良心くんだけを写真に撮り、風呂上がりに渓流で冷やした缶ビールを飲んでゆっくりと寛いでから、山小屋へ戻った。
高天原の山小屋に泊まった翌日は、雲ノ平には戻らず、黒部川の奥ノ廊下(おくのろうか)沿いの登山道を歩いて薬師沢(やくしさわ)小屋をめざした。
黒部川はイワナの宝庫である。あちこちの淵で魚影を確認できる。しかしここのイワナは薬師沢小屋を拠点に活動を続ける『黒部源流のイワナを愛する会』によって保護されている。釣りをしてもいいけれど、キャッチ&リリースが前提になっている。
釣り具は持ってきてないし、僕は穫って食べるための釣りしか知らないから、バードウォッチングならぬ、イワナウォッチングを楽しんだ。岩に貼りついた川虫を捕まえて淵に投げ入れると、イワナがパクッと捕食する。その瞬間がおもしろくて、僕は餌やりに没頭した。釣らなくても楽しめる方法を発見した気になったが、やっぱり釣って食べたい、が本音である。
薬師沢小屋は黒部川本流と薬師沢との出合いにある。渓流に囲まれた場所に建てられてあり、渓流釣り好きにとってはたまらないロケーションだ。
夜は当然のなりゆきで、スタッフたちと酒を酌み交わした。
薬師沢小屋はどの部屋にいても常に渓流の音が聞こえるため、食堂でおしゃべりをしていても寝室には話し声が届かない。早寝が山小屋の原則だけれど、薬師沢小屋の場合は渓流の音がノイズキャンセリングの役割をはたしてくれる。食堂で飲んで語らうことができる珍しい山小屋なのである(遅くまで飲めるとはいえ、当然限度はある)。
こんな恵まれた環境にいるんだから、当然スタッフは釣り好きなのだろう。
女性スタッフの大和恵子さん(ひらがなにすると『やまとけいこ』さん。ほとんど“山と渓谷”である)は渓流釣りが大好きとのことだが、小屋番のキャリアが長い男性の赤塚さんは「釣りが苦手なんですよ」と苦笑した。
「テグスが絡むのがダメなんです。携帯音楽プレーヤーのイヤホンもコードが絡むとイライラしちゃんです」とのこと。
人それぞれではあるけれど、良心くんを披露したら釣り好きの大和さんも、釣り好きでない赤塚くんも良心くんに釣られて、笑顔になった。
良心くんは釣りの天才かもね。
photos by sherpa saito
*高天原温泉:中部山岳国立公園の最奥部、黒部川の源流付近の標高2,100メートルにある温泉。 山小屋で一泊を要する本格的な登山でしか行けない秘湯中の秘湯。