その四 「最北の地で“ジス イズ マイサン”!?」
最北端の地、宗谷岬は特別な場所である。
登山者にとっての山頂と同じ意味合いを持つかもしれない。オートバイの旅に目覚めた20代の若者、つまり30年前の僕は険しい山の頂に向かう高揚した気持ちで宗谷岬をめざしていたように思う。
宗谷岬では常に歌が流れていた。♪流氷とけて、春風吹いて…♪という歌詞の、その名も『宗谷岬』(*)という歌である。『宗谷岬』の歌がエンドレスだったように、訪れる旅人もエンドレスだった。オートバイ、自転車、クルマ、大型バス、そして徒歩。さまざまな種類の旅人が現われ、最北端の碑で記念写真を撮っていく。その光景も山頂に通じるかもしれない。移動の手段は違えど、旅人なら誰しも一度は足を運びたい憧れの地なのである。
あれから30年以上が経つけど、宗谷岬の風景は変わっていない。おみやげ屋があって、旅人が次々にやって来て、相変わらず『宗谷岬』の歌がスピーカーから大音量で流れている。変わった点を探すとしたら、外国人が増えたことくらいか。とくにアジア系、中国や韓国の団体観光客が目立つ。彼らは忙しなく最北端の碑に立ち、わめくように騒ぎながら写真を撮っている。
僕は良心くんを最北端の碑に立たせたいのだが、観光客が途切れないので、良心くんを立たせることができない。でもいつかは途切れるはずだと願って、最北端の碑のすぐそばに立つ間宮林蔵の像の前で、そのときを待ち続けた。
宗谷岬を訪れるのは、これで何度目だろうか。
過去の旅を振り返って指折り数えたが、記憶は曖昧だ。5回以上、10回未満といったところだろうか。最も強く印象に残っているのは、20数年前。初めての著作、『213万歩の旅』を出版したときに行なった北海道放浪の旅だ。
当時の僕は、自分でも展開が読めない旅、たとえばヒッチハイクを繰り返す旅に夢中だった。そんな僕が処女作を出したときに思いついた旅が『北海道わらしべ長者旅行』だ。
モチーフにしたのは、ワラから始まって物々交換していったら最後は屋敷を手に入れたという、あの昔話である。処女作を皮切りに物々交換しながら旅を続けたら、最後は何になるだろう? そのスタートは、最北端こそがふさわしいと思い、僕は宗谷岬にやって来たのである。
振り出しは最北端のおみやげ屋に決めていた。ご主人に旅の意図を話して拙著を渡したら、ご主人は『日本最北端の地、宗谷岬』と書かれた将棋の形をした木製の置物と交換してくれた。その後は南に向かってヒッチハイクの移動を開始して、さまざまなモノと交換を繰り返し、途中でママチャリになるなど、予期せぬ展開で盛り上がり、最後は昔話のようにリッチになることができた。
そのオチはここには書かない。どうしても知りたい方は拙著『シェルパ斉藤の行きあたりばっ旅』を読んでもらいたい。廃刊になった本だけど、今読んでもおもしろいと、胸を張っておすすめできる一冊である。
宗谷岬に到着して30分近くが経ったろうか。
ついにその時が来た。旅人がいなくなった頃合いを見計らって、僕は良心くんを最北端の碑に立たせた。
おーっ、さすがは良心くん。最北端でも絵になる。尖った碑と、まん丸の頭がグッドバランスだ。
僕は写真をバシャバシャと撮ったが、ふと視線を感じて振り向くと、欧米人のカップルがこちらを見つめていた。自転車の旅人だ。荷物満載の自転車に乗っているが、ふたりは「この日本人は何を撮ってるんだ? あれはなんなんだ?」という表情で眺めている。
撮影を終えた僕はふたりに近寄って、話しかけた。スイスから来た旅行者だった。アジアを自転車で旅している途中で、日本一周する予定だという。
僕はふたりに良心くんを紹介した。しかし、思うように英語が出てこない。海外を旅しているときは英語が浮かぶけど、日本にいると思うように単語が思いつかない。分身ってなんだっけ? 良心ってなんていえばいいんだ? と、迷ってしまい、適当に「ジス イズ マイサン」と紹介した。
ふたりはますます不思議そうな顔をしたが、僕はふたりに良心くんを笑顔で手渡し、写真を撮らせてくれ、とお願いした。
良心くんを手にしたふたりは頭を撫でて、「good!」と言った。どこがどうグッドなのか、無表情なのでわからないが、まあ、気に入ったみたいである。
僕はグッドラック! と告げてふたりを見送った。
海外から来た旅人の良心が、個人的に思い入れのある最北端の地で注ぎ込まれた。良心くんは少し成長したんじゃないかな。そう思いたい。
photos by sherpa saito
*編集部註:「宗谷岬」(作詞:吉田弘 作曲:船村徹 歌手:ダ・カーポ)
1976年にNHK「みんなのうた」で紹介され、広く知られるようになった。
現地の歌碑にはボタンがあり、それを押すと歌が流れる。