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第3回 全米トップ40 その2

 1977年、高校3年の秋を形だけの受験勉強で過ごしながら愛聴していたラジオ番組『全米トップ40』でアシスタントの公募を知ると、私は要項資料を準備して送った。不思議なほどに淡々としていたのを憶えている。その時点でラジオ/音楽業界に対し、きちんとした認識も特別な意欲もなかったからかもしれない。それまでアルバイト経験も皆無だったので、初めての履歴書を書き、指定されていた”番組を聴いての感想”を400字詰め原稿用紙1枚分同封した。勉強も佳境の時期、そんなことにうつつを抜かしていたわけでもないがーと書いていて思い出した。  入試ドンピシャのタイミングで実現した78年2月のエレクトリック・ライト・オーケストラ、そしてボブ・ディランの共に初来日公演はなぜかしっかりとチケットを買って人生初(と2度目)の武道館詣を予定していたのだから、私はちゃんとうつつは抜かしていたのだ。  それはともかく、なんせ高3の秋から試験科目だった古文や漢文をようやくまともにやり始めるような、そんなふざけた態度も見事に災いし、日本の教育行政史的には共通一次入試(後のセンター試験)導入前年、つまり現行最終年に当たった78年の現役大学受験は、もちろん大惨敗に終わる。  親から1年間だけの浪人を許され、東京・御茶の水の予備校私大午前部コースに通うことが決まったので、3月になって高校卒業記念にと、私を除いて全員無事進学が決まった計5人ほどで何も考えず四国旅行に行ってしまった。小豆島で気分の良さから調子に乗って、自転車を公道で思いっきりバウンドさせていたら(壷井 栄先生ごめんなさい)後部車輪がパンクし、二人乗り専用の重いのをとてつもない距離とぼとぼ徒歩で引きながら、レンタサイクル店まで返しにいったりと、ありがちなオバカ・トラブルを青春ど真ん中的に味わい無事帰宅すると、ラジオ関東からアシスタント公募の二次面接への連絡があったと母より告げられる。が、すでに指定日時はとうに過ぎていた。このときも自分の迂闊と不運を嘆くことは不思議なほどなく、運命はそんな風になっていたのだなと妙に達観した気持ちだった。  ところが後日、番組プロデューサーから再び電話連絡があり、一通り面接が終わったものの、事情で受けられなかった何人かに声をかけることになったと知らされ、もちろん心勇みながら了解し、港区麻布台のラジオ関東へと向かう。18歳で足を踏み入れた、生まれて初めてのラジオ局だ。そこにはやはり都合で来られなかった、慶応大学に進学したという男子がもう一人呼ばれていて、一緒にポップスに関するペーパー試験(問題のひとつにマイケル・ロイドについて述べよというのがあった)とニュース原稿を読むマイク・テストを受けた。       それが金曜日だったのを憶えているのは、通常土曜日に収録されていた『全米トップ40』が、その週は前日録音になっていて、何と湯川れい子さんご本人に会えてしまったからだ。挨拶もそこそこに、面接を終えた我々はご丁寧に局から記念品を貰い、スタジオを後にする。慶大生と記念品の中身を見せ合い双方合意の上交換し別れた。彼とはその後再会する機会はないままだ。  何日か過ぎ、番組のディレクター/構成の岡田三郎さんからまた電話を受け、アシスタントDJの一人(この時6人採用された)として番組に参加するかどうかを尋ねられた。浪人生をしながら週に1回アルバイトとしてラジオ局に行く生活。それが今日まで続く、私のラジオDJとしての人生の始まりとなる。

この項いったん終わり(またあとで続くかもしれません)

(2013.11.02)

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