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第1回  ラジオ〜卓球少年、洋楽に出会う

「シング」が収録されているベスト盤
『青春の輝き〜ベスト・オブ・カーペンターズ』
(POCM-1540/ユニバーサルミュージック/2,548円)

 1959年(昭和34年)生まれの私は、10代がほぼ70年代に重なる。つまり60年代における激動のロック・シーンなど実体験としては何ひとつ知らない。もの心つく7~8歳くらいからTVを通じて歌謡曲に触れ、小学校高学年でようやくレコードを聴くことを知った。それ以前にも朝日ソノラマのソノシートで『ウルトラQ』などを聴いていたから簡易レコード・プレイヤーとは親しんでいたと思う。

 よく言われる、上に兄姉がいるとその影響で洋楽との接点を早めに迎えるというのは、2歳違いの兄がいるにもかかわらずまったく生まれない機会だった。彼は伊藤咲子とキャンディーズのスーちゃんのファンだったからだ。自分で欲しいと思って親に買ってもらった最初のシングル・レコードは、ソルティー・シュガーの「走れコータロー」。その次に、自分で買ったのが映画『大脱走』のテーマ曲のシングル盤だった(エルマー・バーンスタイン指揮)。60年前後に生まれた日本の男の子が、小学生くらいのときにTVのロードショーで観た『大脱走』に、生涯特別な感慨を抱き続けるのは間違いない。この件は、いずれまた。

 子供は小学校までは家庭と地域のもの、そして中学校に入ってからは学級と自分自身に属するものだと思う。小学校のころから昔選手だったらしい父親とゲーム・センターの台で夢中になってピンポン球を打っていた私は、千葉県八千代市の市立中学校に進むと卓球部に入り、クラスにいる以外の時間のほとんどを部活中心に考えて過ごしていた。昭和40年代の男の子は全員、梶原一騎・原作と川崎のぼる・画による『巨人の星』の影響を受けていたので、然るべき時期になれば、スポ根を実践するのは当然だった。川崎作品ではとりわけ『アニマル1』が好きだったが中学にレスリング部などない上に、それは競技としてあまりにシンドそうだったのでマイナーの極致とは知りながら卓球にした。

 その一方で、クラスの中で深夜放送を聴くのが流行り、試験勉強にかこつけて、もちろん本当は翌日の共通話題のために自室のポータブル・ラジオで『オールナイト・ニッポン』や『パック・イン・ミュージック』、『セイ・ヤング』などに耳を傾けた。振り返って最初にラジオで出会い、忘れられない曲となった洋楽は、73年当時最初の大ブームとなっていたころのカーペンターズによる「シング」だったと思う。ようやく買ってもらえたラジカセで、たまたま録音していた番組で流れていたのを耳にし、それまでの自分の人生でまったく聴いたことのない、とてつもなく美しい曲だと感動したのを今でもよく憶えている。

 ところで当時、AM局もまだまだ洋楽をかけており、とくにある時期になるとなぜかビートルズ特集が頻繁に企画されていた。後々考えてみると、それが聴取率調査週間の定番だったようだ。かくして、ラジオを聴き出した73年ころ、すでにとっくに解散していたビートルズの代表的ヒットの数々に小さなスピーカーを介して遭遇した私とクラスの面々は、それまでTVで観てきた歌謡曲とは完全に異質な世界に魅了され、ビートルズのシングル盤を手分けして月に1枚ぐらいずつ買っては(最初に手に入れたのは「ハロー・グッバイ」)互いに貸し借りを行ない、ラジオのビートルズ特集を録音しては何度も何度も繰り返して聴いた。乏しい小遣いとヘタクソな時間の使い方のため、偉大なる60年代のヒット曲を聴くのが精いっぱいだった私が、70年代のそれも本場アメリカの最新洋楽ヒットとリアル・タイムで向き合うようになるきっかけは、あるラジオ番組との出会いだった。

 73年のある日、同じ卓球部の片山肇が言ったー”それなら『全米トップ40』を聴けばいいよ”

つづく

(2013.09.05)

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