
第22回 エリック・カルメンのころ
<後編:九段下の悔恨と目黒の安堵>
36年前のちょうど今頃、79年11月の夜。私は東京・九段下を地下鉄駅に向かう帰路にあった。たった今、ラジオの世界で洋楽ポップスを紹介することを生業にするきっかけのひとつとなった人物に会えた喜びと、仕事としてのインタビューという観点ではまったく上手くいかなかった口惜しさとが混在し、とても複雑な想いだったのを憶えている。 エリック・カルメンは、第10回世界歌謡祭のゲストとして来日を果たした。ちなみにそのときのグランプリは「哀しみのオーシャン」でボニー・タイラー、グランプリ/歌唱賞が「大都会」でクリスタル・キング。で、エリックは、イヴェントの一環だった11月10日のショータイムのため日本武道館で7曲のパフォーマンスを披露した。ラジオ関東(当時)で放送されていた『全米トップ40』のアシスタントだった私は、そのライヴの直後に番組のためのインタビューを任され高校時代から憧れていたポップ・スターに直接会うチャンスを作ってもらったのだ。いちファンとしてエリックに心酔していたのを踏まえての番組プロデューサーの計らいだったと思う。 そのころ私はキャリア2年目、20歳くらいで甚だ心許ない若造であった。その日はひとりで指定の場所に赴き、通訳を介して30分の限られた時間に放送素材に足る話を聴かねばならない。はい、実はとても大きなプレッシャーでした。それまでいく組かのアーティストと番組用にインタビューはしていたけれど、大体は同じアシスタント仲間かディレクターがいっしょだった。単独で、あのエリック・カルメンかよ!とビビりまくったのだ。少しでもいい感じになるようにと、海外の人は日本の陶器が好きかもしれないと安直な思いつきで、直前に生協で在籍していた大学のネーム入りのドでかい湯飲みを購入し、どう見てもプレゼント仕様ではない包みのまま挨拶の後に手渡した。すると、その場で開けられたので当然周囲の日本人関係者の失笑を買い、それも気持ちが動転するには充分な空気を生んでくれた。本稿を書くため、本当に久しぶりにそのときのテープを聴き返してみた。思っていた通り、ヒドかった。 まず、質問の言葉が緊張でしどろもどろ。通訳の女性もあまり慣れていなかったのか、意図を斟酌するところがそれほどなく、例えば”ラズベリーズのころのことをうかがいたいのですが”と問うと”ラズベリーズの何を訊きたいのですか?”と通訳女性。”いえ、ですからそれを今から言います”ってな具合の噛み合わなさ。それでもソロ2作目『雄々しき翼』のプロデューサーがガス・ダッジォンから自身に変更されたいきさつとか、アルバムに参加したアンドリュー・ゴールドやリッチー・ヅィトーのことを質問していたのを改めて確認して、がんばったんだなあとは感じた。大好きなアーティストなだけに、”もっとしっかりした準備やきちんとした見識を持って臨まねばいけないんだ、インタビューは”ーそんな後の祭りな反省と悔恨の想いを胸に刻みながら、千葉の自宅に帰るべく東西線を目指した。

CHANGE OF HEART チェンジ・オブ・ハート 78年

TONIGHT YOU’RE MINE トゥナイト・ユア・マイン 80年
(2015.10.16)