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きっこうのハッピー・ゴー・ラッキー人生 ?セカンドライフを社会貢献で楽しむ徒然日記?

第2回「ボクがエンタメ企業から環境系にシフトすることになった訳」

「HAPPY」という曲が大ヒットしている。
その曲の印象的なサビと同様に、♪ハッピー♪といフレーズが頭の中でリフレインするお気楽な日々こそハッピーライフと感じる年を迎えているボクの会社人生は、はるか昔レコード会社に入社したところから始まる。
団塊の世代ど真ん中で生まれ青春の延長戦を企業の中で過ごしていられた、まさにハッピーでラッキーな時代。自分の感性とヒット曲が重なり、高度成長がまもなく始まる時期でもあった。

ボクのいたCBSソニーは、前例の無いことにトライすることに価値を持つ、音楽業界にあってもとびきりの問題児企業であり、しかも時はまさに運を天に任せ、まったく不安の無いイケイケな時代。その時代の空気をたっぷり吸い込んで、ボクの思考方法の基本は形成されたようだ。「温暖化だ」「環境ビジネスだ」と言っても、せいぜいアル・ゴアの「不都合な真実」が一般的という時代に、それが事業に繋がったり自分自身のライフワークになるなんて普通は想像できないことを始めてしまったのも、おそらくはその思考法のせいだ。だって、ボクが育ったのは、新人を発掘する際にマーケティングするとか、ある新人がなぜ有望かその理由を合理的に説明することなど考えもしない業界だったのだから。
おまけに、手がけたアーティストや部署は、良く言えば時代を先取りした、悪く言えば、まだ海のものとも山のものともわからないようなものばかりだった。

例えば世はコンピュータ、ITの産声を上げる直前、ボクが40代の頃、幕張メッセで開催のアップル社のマックフェアで史上初?のカラーPC!を見て、その場で購入を決め、当時勤めていた音楽プロダクションの所属アーティストにデータベースソフトを教わり、自前の関係者DBが作ることができた感激以来、音楽とは別に、仕事と趣味が一致する会社人生が始まった。また、音楽著作権の部署に異動になったのは権利ビジネスや企業人の英語力がようやく重要視され始めた時代だったが、本部が英国とあって英会話レッスンを始めた。
ネットの立ち上がり時にはジャケットの画像データ転送をNYの本社から衛星で送る試みに参加。サンフランシスコで先方のスタッフとミーティング、PCゲームやプレイステーションの立ち上がりの際にはアーティストの横でその開発環境の中で過ごすなど、時代の流れのど真ん中で刺激を受け続ける生活を続けた。そして、マーケティングの前に自分の発想と思いこみが成功のカギと信じている人達とばかり仕事をするなかで、その人的ネットワークや世界観、価値観、時代性などの多様な考え方を知って、おのずと自分のベースが出来た。

その頃、時は京都議定書の発効する2002年を迎えており、天から環境ビジネスという啓示がそっと降ってきたのはボクにとってはとても自然なことだった。
当時、会社グループの中のエンタメソフトの印刷事業部門にいたボクは、音楽産業のパラダイムがダウンロード等の影響で大きく変動し始めていたし、音楽プロダクションでの経験から音楽=パッケージではなくアーティストという人間のビジネスだと知っていたから、既存のパッケージ依存から離れた地平での事業を興していく時期が来ていると思ったのだった。それは、ストリートに突然現れたなじみの無い音楽スタイルのアーティストを未来のスーパースターだと信じてしまった音楽業界人と同じで、「環境」と言うなじみの薄い天才新人くんこそがボクにとって世の中に出すべきアーティストだったという訳だ。
そうしてボクは環境事業部を立ち上げ、その後、環境から社会貢献にまで広がる流れが生まれた。しかもこれは、一企業の事業では無く、一人の人間=アーティストの一生を背負うような、例えば結婚のような出会いでもあったから、こうして今でも楽しく付き合っているんだろうと思う。
次回はそんなボクが手がけている「最高のエンターテインメント」をぼつぼつ紹介させてもらいます。

(2014.06.19)

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