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内田正洋 内田沙希 シーカヤックとハワイアンカヌー 海を旅する父娘の物語 photo by James Hadde

第2回 親父は海から沙漠へ向かった

 前回、マグロ漁師になって世界を旅しようとしていた私(ワシと読む)は、国際的な政治の枠組(後の排他的経済水域)とやらによって、手段であった海への夢を断ち切られた、という話を書いた。しかし、世界を旅するゾ!という思いは、そんな簡単には消えなかった。マゼラン艦隊のように、死をも恐れぬ強烈な気持ち(今考えれば、だけど)は、それこそ「我が、まま(儘)」なものだった。
 
 気持ちが天に通じたのか、大学を卒業して1年ほどが過ぎた頃、私の夢は思いも寄らぬカタチで現実化したのである。といっても、その道は海じゃなく、なんと沙漠への道だった。突如として、海への道が沙漠への道へとつながったのである。ちなみに、沙漠は“砂”漠とも書くけど、沙漠の方が心情的に私は好きである。沙漠には水が少ないからだ。海は茫漠とした世界であるが、沙漠もまた海のように茫漠たる世界である。日本に沙漠はないが、そこが海のような世界であるということは、1975年にサハラ沙漠をラクダで横断する旅の途上で渇死した上温湯隆さん()の手記『サハラに死す』(時事通信社)を読み、強烈に感化されていたから知識だけはあった。そのサハラが突然目の前に現われたのである。
 
 1979年、私は実に面白い会社の社員となった。社名はACP。何だか略号のようだが、確かにそうで、Aはアドベンチャラス。冒険心があるとか、危険を恐れないという意味である。Cはクリエイティヴ、創造的であるということ。Pはパーソンズで、人々や奴らといった意味である。そんな意味合いを込めた会社だ。社長は、横田紀一郎という人で、彼こそがまさに冒険を創造する奴だったのである。

 ACPの社員募集が載ったのが、オートバイ雑誌(ミスターバイク)だったってところが、また痛快だった。しかも広告じゃなく記事。記事のタイトルがまた刺激的で、『冒険者、求む』だったのである。いきなり、その文字が私の目に飛び込んできて、記事を読む前に「これだぁぁぁ!!」と叫んだことを(心の中で、だけど)覚えている。そのタイトルで私の人生は、大きく変わったのだった。
 
 ところが記事を読むと、前月売りの号だということに気づいた。募集期間はとっくに過ぎていた。とはいえ、勢いに乗った私はお構いなし。すぐに電話して「明日、面接に行きます」と、一方的に押し切った。面接時の格好は、ロングヘアーにアロハシャツにジーンズ。ところが、現われた社長の方が強烈な強面。私の方がビビった。それで「来週、髪切って出直して来い」と最後に言われ、その通りにして翌週訪ねたら、何と、いきなり採用された。
 
 何が原因で採用されたかは分からないが、まぁ「我が、まま」を見抜いてくれたんだろう。もちろんマグロ船の経験は、熱弁を振るっていたはず。でも横田社長の方が何枚も上手だった。驚くことに、すでにサハラ沙漠を何度も越えた人だったのである。逆に彼の熱弁に圧倒され、「すっげーぜ!」と、自分の目指す方向を確信したのだった。海から沙漠へと、一気に思いが飛んで行ったのだ。沙漠だって海と同じじゃん、と。
 
 このACPなる会社、テレビの海外取材番組の現場を請け負う会社で、日本からわざわざ車を運び、社員たちは世界を旅していた。海外取材番組の始まりの頃である。当時有名だったTBSの朝番組に「キャラバン2」(おはよう700という番組のコーナー)というのがあった。レポーターを車に乗せ、すでにポルトガルのリスボンから東京までの7万キロ(1975年〜76年)、南北アメリカ大陸縦断であるアラスカからフエゴ島の8万キロ(76年〜77年)といった壮大な自動車旅行をやっていた。私が入社した時は、アフリカのケープタウンから東京の7万キロ(77年〜79年)の途上だった。社員募集は、その運転手を募るものだったのだ。当然ながら、学生の頃から私もその番組は見ていた。
 
 まぁ、この話、詳しく書くとやたらと長くなるのだけど、とにかく私は、採用されて3ヶ月後には北アメリカ大陸を走っていた。次の新たな旅としてヨーロッパとアフリカ、そしてアメリカで同時に6台の車を走らせながら世界を見せるという企画。私はアメリカ班に抜擢されたのだ。
 
 毎日レポーターとスタッフを乗せて2台の車(キャラバンカーと呼んでたな)で移動する。ドライバーは2名しかいないから交代はない。レポーターの交代時には、例えばアトランタから3日後にバンクーバーまで来いといったような強烈なリクエストもあった(3日で5,000キロを走って来いということだ)。当時のテレビマンは、アメリカの広大さなんか全然理解していなかった。

 1年ばかりアメリカ中を走っていた。走行距離は16万キロにもなり、新車だった2台の車は、ボロボロになっていた。アメリカ、メキシコ、カナダ主要部のほとんどを走った。舗装路だけじゃなくダート道を走ることも多く、オイルパンに穴を空けたこともあった。取材が終わったのは80年の夏前。番組の終了が決まったからだった。
 
 そして80年の夏になり、今度は別の番組の担当になった。今度は中東だ。クウェートへと2台の車を送った。ACPは、次の番組を企画し、重複して仕事を請け負っていたのである。番組名は『世界の道』(日本テレビ)。5分の帯番組でブリヂストン提供の旅番組だった。クウェートからイラク、ヨルダン、シリア、サウジアラビア、レバノンといった中東の国々を巡る旅である。ACPは、他にも作家の開高健氏の南北アメリカ大陸縦断記の取材ドライヴも請け負っていた。後に「もっと遠く!」「もっと広く!」として出版された旅である。
 
 中東の担当になった私は、本格的な沙漠走行を強いられるだろうと、実は期待していた。カリフォルニアやアリゾナ、テキサス、メキシコ北部といったところで沙漠を走ることがあったけど、中東はもっと本格的な沙漠である。アラビアのロレンスの世界じゃんと、ワクワクしていた。それは案の定だったのだが、実はそれ以上の、とてつもない経験をする羽目になったのである。いや、ホント。

 すでにオイルマネーで潤っていたクウェートに入ったのは、9月の初旬だった。クウェート国内を取材し、国境を越えてイラクに入ったのは、確か9月18日。翌19日の夜、滞在していたバスラ(チグリス川とユーフラテス川が合流したシャト・アル・アラブ川沿いの街)の街路を、いきなり戦車が走っていた。翌日から北へ移動したのだが、対向車線を戦車が走ってくるではないか。私らの車など無視して突っ込んでくる。「な、な、な、何ごとだぁ!」だった。舗装路から外れ、脇の沙漠道を走り、21日はクートという街にいた。歴史的に肥沃な三角地帯と呼ばれ、農業の始まりとされる地帯を取材するために。
 
 そして翌9月22日、畑で作業をする人々を撮影していた時だ。街の近くからロケットのような噴射煙を出しながら飛んでいった飛行物体を見た。「えっ、ミサイル?」である。それは、確かにイラン方面へ撃たれたミサイルだった。10発のミサイルが、イランの基地を攻撃したのである。後にイライラ戦争と言われるイラン・イラク戦争が勃発した瞬間だった。ラジオで戦争が始まったことを告げていると、イラクの情報省から派遣されていたアラビア語〜英語通訳が青ざめた。
 
 その発射された瞬間の映像を、カメラマンは当然ながら16ミリフィルムに収めた(当時はビデオ取材の始まりの頃で、16ミリフィルムもまだ使っていた)。ニュース映像としては、超特ダネである。私らは、すぐに首都バグダッドへ向かった。到着したのは、翌日の明け方。すでにバグダッドは、戦勝気分で街が賑わっている。しかし、テレビではイラン側の反撃の映像も出ていて、私らがいたクートの街に反撃が及んでいた。
 
 その後、イラク政府から宿泊するホテルを提供してもらった。その時点でイラク国内にいた外国人ジャーナリストは、私らの取材班と北部にいたアメリカABCテレビのクルーだけだった。ホテルにはテレックスが用意されており、自由に使ってもいいという。情報省が戦況も教えてくれる。テレックスというのは、聞き慣れないだろうけど、ファックスができる前の文字の送信システム。テレタイプと呼ばれる端末から送信していた。日本語の場合は、ローマ字で書いて送っていた。
 
 数日後には、世界中からジャーナリストがバグダッドに入ってきた。日本からは読売新聞の記者が一番乗り。その人は、レバノンのベイルートに在住のベテランで、私らは同じ系列である日本テレビの取材班だから、私らの話をそのまま記事にして日本に送っていた。私らの取材班は、ドライバー2名、カメラマン1名、ディレクター、英語通訳の5名。イラク政府が前線まで取材をさせてくれるといい、ドライバーを確保してくれたので、私ともうひとりのドライバーはバグダッドに残り、日本との直接通信をしていた。私はタイプライターが打てたので、テレックス係。読売の記者とイラク側の情報の裏取りをしては、日本テレビの外信部に連絡していた。時には電話で現地報告をした。

 そのうち、日本テレビも映像が欲しいってことになり、前線から戻ってきたディレクターが、生のフィルムを持って、隣国ヨルダンの首都アンマンまで走り、日本にフィルムを送って戻ってきた。タクシーをチャーターして往復2,000キロ近い距離である。私ら旅の取材班は、必然的に戦争ジャーナリストにならざるを得なかった。
 
 イラクの大統領は、前年に就任したばかりのサダム・フセインである。戦争を始めた理由なんて、私には皆目見当も付かなかったけど、フセインの記者会見には、何度か参加した。いつの間にか、そういう立場になっていた。そして、日本からもNHKやら他の新聞社の記者たちがバグダッドに入ってきた。私らは、他にも貴重な映像を持っていたので、自走してヨルダン国内へ移動。夜の闇にまぎれ、800キロほどを走った。戦時下なので、上空から見えないようヘッドライトの上半分の光を遮る工夫を施して走った。国境を無事に越えた時には、さすがにホッとして、どっと疲れていた。
 
 とまぁ、この時の話も、まだまだあるのだけど、ヨルダン以降は本来の取材を始め、ヨルダン、シリアを回り、レバノンのベイルートで旅は終わった。とはいえ、ベイルートでは、レバノン内戦が継続していて、そこでも戦闘に巻き込まれた。でも、この経験で私はジャーナリストになろうと本気で思ったのである。読売新聞の記者(キヨモトさんという)が、本当にスマートなオッサンだったというのも、その気になった理由だし、ベイルートでは彼のアパート近くで戦闘に巻き込まれたが、その時の彼の的確な動きに、私はシビれたのだった。彼と同業で同じアパートに住んでいたイギリス人ジャーナリストが、クルマと共にアパート前の路上で爆破されたという話も聞いた。私は、リアルな戦争ジャーナリストを間近に見たのである。
 
 そして帰国したら、日本テレビからスクープ映像によって表彰され、金一封までもらった。とはいえ、ACPはさらなる企画を始めていた。それがパリ・ダカール・ラリーへの挑戦だった。私と同期で入社した男とふたりして、入社直後から挑戦すべきだと横田社長に直談判しており、それがきっかけとなっていた。79年は、パリ・ダカールが始まった年。当時はスポンサーの名を取ってオアシス・ラリーとも呼ばれていた。私が中東に行く前、すでにACPはラリーへの出場を社内で決めてもいた。テレビの仕事が続くという保証がないからだ。自分たちが主役になれるような企画じゃなきゃ、会社は存続できないという社長の判断だった。それこそが冒険創造であった。
 
 私が中東に行っている間に社内チームが結成されて動き始めていた。私もチームに入れてもらいたかったが、日本テレビの仕事が継続するかもしれないため、初挑戦時は置いてきぼりにされてしまった。そして、チームACPは1981年1月、第3回パリ・ダカールに日本人として初めて出場することになり、時間外ながら完走しマスコミを賑わした。私は、翌年からの参加の確約を社長からもらい、日本でのパリ・ダカール広報活動に奔走した。日本ではまだ誰も知らなかったパリ・ダカールだったから、私らはジャーナリストとしてパリ・ダカールを社会に伝える仕事をしていた。
 
 結局、日本テレビの番組は継続できずに終了した。そして81年12月、私はパリにいた。82年の元旦、第4回目となるパリ・ダカール・ラリーのスタート台に立つために。いやはや、思い出すと激動の80年と81年だったなぁ。パリ・ダカールへの初出場は、24歳の時だった。1月8日生まれの私は、25回目の誕生日をサハラで迎えることになった。
 
 こういう経験をした親父がいる娘は、どう思っているんだろう。とはいえ、あまり自分の経験を話したことはなかったな。さて、当時の私と同じ年齢になっている彼女に、ここからバトンタッチなのだが、それは次回に続くのである。           (つづく)

(2014.08.20)

 
 
(*)上温湯隆(かみおんゆ・たかし):
1952年、鹿児島県生まれ。
冒険家、探検家。1970年から世界を放浪、1974年1月からラクダによるサハラ砂漠7,000キロの単独横断に挑戦するも、翌75年5月に 渇きと飢えにより死亡したとされている。

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