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内田正洋 内田沙希 シーカヤックとハワイアンカヌー 海を旅する父娘の物語 photo by James Hadde

第18回 私の親父と海保の小僧

 今年(2017年)になり3月にはパラオ、6月には台湾へと私(ワシと読んでね)は旅をしていた。その間、昨年の熊本地震で自宅が全壊して被災者になり、3年ほど前からガンも患っていた親父どのが亡くなった。4月上旬のことで、享年91(満89歳)だった。ホスピスに入ってわずか1週間、静かに逝ってしまった。すぐ脇にいたお袋が気付かないほどだった。
 
 我が親父どのである内田正雄は、昭和2年の12月生まれ。まだ15歳だった昭和18年10月、彼は海軍に志願。その年4月に開隊した鹿児島海軍航空隊に甲種飛行予科練習生(甲飛13期前期)として入隊。いわゆる予科練である。この13期は大量に練習生を集めており2万8000人もの若者たちが一挙に採用され、1年半の教育期間も10ヶ月に短縮され、とにかく早く教育して戦場へと送り込まれようとしていた。すでにミッドウェイ海戦で日本海軍が惨敗を期した1年以上後のことで、さらなる総力戦に向け、まだ若い少年たちが動員されていた。
 16歳になっていた昭和19年7月には、予科練を卒業し飛行練習生(飛練39期)となるが、偵察機搭乗員の教育機関としてやはり開隊した上海海軍航空隊に送られ、偵察術の訓練に明け暮れていた。日本の外地であった中国大陸の上海に送り込まれていたわけだ。
 昭和20年2月には、すでに戦況が相当悪化しており、上海でも空襲があり、今度は内地の徳島海軍航空隊に移動させられ訓練を継続していた。すでに17歳だった。そして翌3月、東京大空襲に見舞われた頃には、偵察練習機「白菊」による特攻訓練が徳島空で始まり、5月には何とその練習機による特攻(白菊隊という)が開始された。親父どのは、まだ訓練途上であり、肝心の練習機のすべてが特攻機になってしまい、しかも6月には全滅したので取り残されたカタチとなった。そして8月15日の敗戦となり、2階級特進して上飛曹となり海軍生活を終えている。敗戦直後、徳島から一度郷里の熊本に戻るも、武装解除のために再び戻っており、その際に原爆投下直後の広島を2度通過していた。

 戦後は、電気技師として昭和22年まで九電工で働いていたが、空襲で焼けた家の近所にできた官立熊本無線電信講習所(現熊本高専)に入学して通信士となり、昭和25年4月に海上保安庁に採用されている。しかし、余りにも手持ちの金がなく、入庁の延期を申し出て、無線局長として下関と長崎の漁船に5ヶ月ほど乗り組んでいた。その漁船に乗っていた間に、今度は朝鮮戦争が始まり、東シナ海でアメリカ海軍の艦隊に巻き込まれたこともあったという。そして9月になり、巡視船「かささぎ」の通信士として徳山海上保安部に赴任した。当時は制服もなく、米まで持参しての乗船だったという。
 巡視船「かささぎ」は旧海軍の第1号型駆潜特務艇として建造され、戦後は掃海艇に指定され、さらに巡視船となっていた木造船。親父どのが乗船してすぐ徳山から対馬の厳原へと移動している。
 実は、朝鮮戦争まっただ中の当時、海上保安庁は国連軍(正式な国連軍じゃないけど)の要請によってアメリカ海軍指揮下に入り、朝鮮海域での機雷掃海を担当していた。日本特別掃海隊と呼ばれ、日本の船であることを隠すために日章旗は掲げず、船名も消しての掃海作業だった。「かささぎ」の対馬への移動も、元々が掃海艇であったためか、前線に近い対馬へ移動させられた可能性が高い。
 
 敗戦後5年といえば、すでに日本国憲法は施行されており、日本は戦争を放棄していたけれど、朝鮮海域での機雷掃海活動はアメリカ軍を中心にした国連軍の上陸作戦のためで、明らかな戦闘行為の一部だった。機雷を敷設したのは北朝鮮側だった。
 そして日本がカタチだけは独立を果たした昭和27年には、海上保安庁内に海上警備隊が組織され、旧海軍軍人たちを登用する。親父どのは警備隊移動への「熱望」「希望」「否」という質問に対し、熱望とは書かず希望と書いて移動しなかった。この質問は戦時中の特攻志願の質問と同じだったらしい。「希望」では移動しないことが分かっていた。「否」と書く人はいないからである。
 海上警備隊というのは後の海上自衛隊となる組織で、要は海軍復活の兆しだった。海上保安庁には商船乗り出身者が多く、海軍とはかなり雰囲気が違っていたのが移動しなかった理由だと言っていた。「商船乗りの先輩たちは優しかったったいな」と。戦時中、商船乗りは海軍より多くの犠牲者を出していた事実もある。そして、昭和29年には現実に海上自衛隊が組織される。海軍とは呼べない海軍が復活した。
 
 昭和29年の3月には、新設された長崎県の大村航空基地に配属され、ヘリコプター搭乗員となる。その年に結婚もしたがあまりに給料が安く、生活が困窮していた。それで、子供ができた昭和31年(私が生まれたわけだな)に、給料がより高い自衛隊に移動しようと再び考えたが、父親(私の爺さん)と嫁の父親(こちらも私の爺さん)に反対されたため断念したと言っていた。
爺さんたちは当然ながらもう戦争は懲り懲りだったはずで、親父どのも逆らう気にはならなかったのだろう。しかも、しかもヘリコプター搭乗員であったため、果たせなかった大空への夢を叶えていたという理由もあったようだ。

 私が1歳になってしばらくした昭和32年9月、今度は佐世保海上保安部に転勤になり巡視船「ひらど」に乗船。その後同じ佐世保の「ちくご」に乗り組んでいた。「ちくご」に乗り始めた頃から私にも記憶が残っている。佐世保の旧海軍基地は、接収されてアメリカ海軍基地になっており、その基地内に巡視船を係留する桟橋があった。
 私の遊び場はその基地内や巡視船で、近くの官舎から基地内まで歩いて遊びに行っていた。ゲート番のMP(アメリカ軍警察)も、敬礼してゲート内に入る3歳児を快く通していたと、後になって聞いた。私はそういうガキんちょ、だったようである。
 その頃の強烈な印象というか思い出がある。桟橋で、親父どのが私の両手をつかんでぐるぐると回していた。ところが、そのまま私を海へ投げたのである。空中を飛んで海へ没した私を、すぐに飛び込んで助けたのだが、あまりに強烈な教育である。同僚からも「息子を殺す気か!」と怒られたらしい。とはいえ、その体験が私を海の仕事に就かせたのかもしれん。記憶には、暗い海の中が残っているが、最初に海の怖さを教えてもらったことは、その後の私の人生に何らかのインパクトを与えたのだろう。まぁ、トラウマになったという部分もないわけじゃないが。

 その後の親父どのは、ずっと巡視船乗りとして過ごした。定年を迎えるまでの38年間、巡視船から降りることもなく、陸上勤務は一切しなかった。退官したのは昭和63年のこと。横浜海上保安部所属の設標船「ほくと」(航路標識などを設置する船)の通信長が最後の勤務だった。
 通信士という立場だから、いわばコミュニケーションのプロでもあったわけで、私がジャーナリストを目指したことや、海の世界に生きてることなんかは、やはり親父どのの影響だったと、今さらながら納得できる。しかも、高校卒業まで海上保安部の官舎で育ったから、「門前の小僧、習わぬ経を読む」じゃないが、私は「海保の小僧、習わぬ海を読む」だったのかもしれんな。海保の小僧は、海側からの視点で物事を見たり読んだりするようになるようである。
 しかも、親父どのが付けた名前は「正洋」であり、以前は「正しい洋」だと思っていたが「洋を正す」とも読み替えられるからして、アウトドア的な方向(環境保護的な方向)で海に生きようとしている今の生き方も、名が体を表わしているのかもしれんとさえ思うようになった。

 ということで、パラオや台湾へ行って来て、何を感じていたかというと、やはり海保の小僧的なことだった。要は海からの視点で色々と感じていたのである。
 パラオも台湾も、かつては大日本帝国の一部であり、パラオには南洋庁があり台湾には総督府があった。今の多くの日本人には、パラオや台湾が日本だったという感覚がほとんどなくなっているけど、パラオでも台湾でも、今もって親日の人が多いことから、やはり歴史との関係で今につながっている。
 まずは台湾だけど、台湾は今の日本とは国交がない。国名も、一応は中華民国なのだけど、日本政府は国家としては認めていないから国名と表記するのも何だか変だ。台湾でも「中華民国」なのか「台湾」なのか、意見が分かれているらしく、実にややこしい。戦後の混乱はまだ続いているのである。
 台湾島全体が国家というものの統治を受けた歴史は、日清戦争で勝利した日本が、清から島全体を割譲されてからのことで、島全体が国家に入ったのは日本が初めてだったという見方がある。その日本だった間の半世紀は、当然ながら天皇陛下が元首であり、明治天皇、大正天皇、昭和天皇は台湾の元首でもあったことになる。
 その前の清の時代は、全島を統治していたわけではなく島の西側だけだったらしい。日本の敗戦後は、今も中華民国政府が全体を実効支配しているけど、国家なのかどうかがハッキリしないから、書く際にはややこしい話である。
 
 で、今回の台湾への旅は、例の3万年前の航海実験のためだった。台湾で見つかっている最古の遺跡、長浜文化と呼ばれているのだが、旧石器時代のものである。台東県長浜郷の八仙洞という洞窟遺跡が代表的な痕跡だ。3万5,000年ほど前から人が暮らしていたようで、台湾島東海岸の海沿いにある。当然ながら海の向こうの石垣島などの旧石器文化との関連性が考えられる。当時の台湾はまだ島ではなく大陸の半島だった。だから、石垣島を含む八重山諸島まで海を渡って来た人たちは、大陸沿岸からやって来た可能性もあるというので、そのための訪台だった。
 この台湾島東海岸には、現地では原住民族と呼ばれる先住民たちが多く住んでいる。台湾では先住民とは表記せず、原住民族となる。先住民という表現には、消えた民族といったニュアンスがあるためだ。なので、ここでも原住民族と書いている。
 台湾に住む多くの人たちの祖先は、大陸の王朝が、明から清になった17世紀以降に大陸から来た人たちのようで、その子孫たちは本省人と呼ばれる。でも、それ以前から住んでいるのが原住民族の人たちで、彼らも本省人となる。今の台湾政府が認めている原住民族は16民族。東海岸側に多くの原住民族が住んでいる。
 
 で、3万年前の話だ。清が始まったのは17世紀だから、それ以前からあったと思われる台湾文化から3万年前は想像するしかない。つまり、それ以前からいた原住民族の文化や風習から、太古の台湾半島を想像するしかない、ということだ。それで東海岸の台東県へと行ったのである。ここらあたりには、原住民族最多の人口を抱えるアミ族の人たちがいて、彼らは伝統的に竹の筏を使って漁をやっており、その流れが今も続いている。そこでアミ族の竹筏職人に協力してもらって、3万年前を想像しながら竹の舟をこしらえてくれんかと相談を持ち掛け、それができたというのでテストしに行ったのだった。
 台湾原住民族の言葉というのは、オーストロネシア語族の祖語であるといわれ、それが定説になっている。ハワイやタヒチ、ニュージーランド、イースター島など、南太平洋のポリネシア語もオーストロネシア語族であり、遠くはマダガスカル島までこの語族は拡がっている。アミ族を始め、台湾原住民族はどこかポリネシア的なのであるが、それが言語の共通性からも理解できる。
 さらに、かつての台湾は琉球でもあり、沖縄が大琉球、台湾が小琉球と区分されていた時代もある。清の前の明、14世紀から17世紀にかけてのことだ。大陸から見ると、いわゆる漢人がまだいなかった台湾も沖縄も、同じ琉球だったのである。今も、台湾島南端近くの西側に小琉球と呼ばれる島がある。
 そして、琉球諸方言(琉球諸語)は、日本語の祖語に近いとされている説もある。方言を比較言語学的な手法と方言周圏論的な方法で解析していくと縄文時代の言葉が浮かび上がってきて、日本語の祖語に近いものがもっとも残っているのが琉球諸方言だという話。この琉球諸方言もまたオーストロネシア語族に入るものかもしれないとさえ、私は感じている。
 また、比較神話学的な分析では、日本神話が北方の民族と南方にある東南アジアやポリネシアの民族のものが混ざったものだという説もあり、やはりオーストロネシア語族との関係が示唆されているから面白い。
 
 それに、現人類であるホモ・サピエンスの拡散の最後の段階は、海への進出だってのが重要。サピエンスは南極大陸を除くすべての大陸や太平洋の絶海の孤島まで進出して拡散した。サピエンスがサピエンスたる存在になった理由、それは海への進出であるという側面もあるし、私などはそこがもっともサピエンスじゃん、と思っている。
 そのサピエンスが、意図的に最初の航海に出たのが、台湾から沖縄への航海であるという仮説が、私らがやっている3万年前の航海実験のテーマである。海をただ渡ることは「渡海」と呼ぶけど、「航海」となると意図的であり往復も考えているということ。何度も、何度も、失敗を繰り返しながらも航海への情熱が衰えることなく、サピエンス、特に東アジアの辺境にいたサピエンスたちは海へと進出した。
 沖縄島のサキタリ洞遺跡では、つい先日、世界最古となる2万3,000年前の釣り針に加え3万年前の幼児の人骨まで見つかっている。見つけたのは私らのプロジェクトメンバーである。釣り針は貝を削って作っており、縄文時代以前の釣り針としても初めての発掘だった。この洞窟は、2万年以上、サピエンスが利用していたことも分かってきている。間違いなく彼らは、最初の航海サピエンスだったと私は書きたいのである。

 それで、次はパラオの話だな。パラオは現地語ではベラウと呼ばれ、パラオ共和国という立派な独立国である。でも、人口はわずか2万人ほど。私が住む神奈川の葉山町より少ない。日本が統治していた時代は、日本人だけでも2万人ほどが暮らしていた。パラオ人はもっと少なかった。当時のパラオはミクロネシア全体を統括する南洋庁の本部があったところ。日本の真南にあるから時差がない。直行便で行くとわずかに5時間弱のフライト。パラオ人が話すパラオ語もまた、台湾原住民語と同じオーストロネシア語族に入るから、台湾の人たちとは親近感があるらしく、中華人民共和国の人たちとは一線を画しているらしい。もちろん今もなお親日の国家である。
 パラオに行ったのは、世界遺産に登録されたものがあるからだ。自然遺産と文化遺産の両方があり、世界複合遺産となっていることはあまり知られていない。パラオには世界的にも特異な世界があるのだ。
 自然遺産の方は、やはり海である。複合遺産の名前は「ロックアイランド群と南ラグーン」というもので、このロックアイランドと呼ばれる島々とその回りのラグーン(礁湖)は、実に珍しい自然環境なのである。マリンレイクと呼ばれる汽水湖があり、マッシュルーム型の島々が点在していて、地学的に希少な存在なのだ。詳しく書くと長くなるので、とにかく世界的に希少だから自然遺産となった。
 
 で、文化遺産の方はというと、これがまた希少なのである。太平洋の東方にあるイースター島はモアイ像で有名だけど、ロックアイランドもまたこのイースター島に匹敵するのだ。イースター島は、ポリネシア語ではラパヌイと呼ばれ、ポリネシア人の太平洋拡散でも、もっとも遠くまで行った場所である。いや、南米大陸までも行ってるけど、あの小さな豆粒のような島を見つけて、そこに移住したのだから驚愕なのである。ところが、そのラパヌイには、ある時期から人がいなくなってしまった。モアイ像を作った人たちは、一体どういう人たちなのか? それがラパヌイの希少な価値となっている。
 実は、ロックアイランドもそうなのだ。人が移住して来ては、突然いなくなり、さらにまた来ていなくなり、といったことを何度も繰り返している。それが文化遺産としての価値。要は謎なのだ。ロックアイランドは、今はまったくの無人で、人を寄せ付けない自然というには、それほど厳しいものでもない。すぐ近くの島には人が住んでいるのだから。でも、誰も住もうとはしない。日本の統治下でも秘密基地はあったが定住はしていないはず。人を寄せ付けない何かがあるのかもしれない。
 というのがパラオで、私はこのパラオこそエコツーリズムの世界的な拠点になると思い、政府を始め、地元大手の観光会社と今後のパラオのあり方について話し合うために、訪問したのである。
 もちろん、パラオにもカヌーはある。パラオ人も元々はカヌー民族である。私も関わっていたハワイ島からの贈り物であるポリネシア式航海カヌーの「アリンガノマイス」号が停泊していて、パラオコミュニティカレッジが運航している。10年ぶりのパラオだったけど、「アリンガノマイス」号とも10年ぶりだったな。

 ということで、今回の私の話は、ここいらで・・・

(2017.07.30)

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