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内田正洋 内田沙希 シーカヤックとハワイアンカヌー 海を旅する父娘の物語 photo by James Hadde

第5回 旅立ち〜ハワイからニュージーランドへ

 前回、原稿を書いてから、もう半年が過ぎました。私(わたし)は今、ハワイではなくニュージーランドにいます。この半年間で、色々な経験をしましたが、そのことは次の機会に書きますね。それで、今回は2008年5月にハワイに来た直後のことから書き始めようと思います。
 
 あの当時、私はまったくといっていいほど英語が分かりませんでした。だから、いつも電子辞書を持ち歩いて行動していました。ハワイに来た目的は、もちろんホクレア号の訓練のためですが、ビザの関係もあり、カピオラニ・コミュニィティ・カレッジ (KCC)に入学し、学生ビザで滞在していました。
 
 ハワイに着いてからの1週間は誰もが経験するであろう、ホームシックにかかり、ほとんど毎日?泣いていました。育った家、家族、友だち、日本からも初めて離れ、言葉も通じない、よく知っている人もいない。ハワイは日本からは身近な海外ですが、1人暮らしはそう簡単ではありませんでした。

 最初の問題は、まずどこに住むか、でした。はじめの1ヶ月はいわゆるホームステイをしました。その後はそこの家族が夏中旅行に行ってしまうことになり、自分で家を探さなければならなくなりました。家探しなど、今までしたことがなく、両親にも、そればっかりは遠く離れているので、手伝ってもらうこともできず、自分でなんとかしなくてはなりません。
 
 クラスメートであり、サーフィンでも、ハワイのことでも先輩格だった友だちに教えてもらいながら家を探しました。見つけた家には2ヶ月ほど住みましたが、そこの大家さんとは結局あんまり相性がよくなかったので、秋になってから、再び家探しになりました。
 
 それはともかく、とりあえず夏の間の家が決まり、最初の夏が終わるまでは、毎日学校と家との往復だけでした。勉強していたのは英語。英検の準2級という、留学に必要な最低レベルの英語力だったので、英語のクラスはかなり大変です。放課後は、毎日図書館か家で宿題をして、あとは寝るだけという毎日です。
 
 でも、このクラスで出会った日本人の友だちとは、生涯付き合えるような関係になりました。みんな似たような状況だったので、助け合って毎日を過ごしました。今ではそれぞれが夢をかなえるため、頑張っています。
 
 今思い出すと、あの頃は本当にたくさんの試練が、日常生活の中にありました。それまでは、家族や友達が手伝ってくれていたことを、自分1人でしなくてはならなくなりました。今考えると、なんであんなことで?と思うようなことにも悩まされました。もちろん、家を出て1人暮らしを始める人は、みなさん経験することだと思いますが、この時の試練のおかげで、家族や友だちのありがたさに心の底から気づきました。
 
 学校ではリベラルアーツを専攻しました。その後はハワイ大学に編入したいと考えていました。(学費のことはまったく考えずに・・・)日本で言うと教養学のようなものなのでしょうか? 半年後からはハワイ大学に編入した際の専攻を考えてクラスを選んだので、理科系が多く、卒業するまではかなり勉強しました。日本語でも難しいのに、英語だったので余計難しく感じていました。

 翌年になると少し余裕ができたのか、毎日サーフィンをしようと決め、1年を過ごしました。中古の車も手に入れました。陸にいるとハワイですけど、海にいれば日本と同じで、気持ちが癒されるのです。海の上にいると、自分がちっぽけな存在だと感じます。悩んでいることなんか、ちっぽけなものだと感じるのです。海は本当に大きいです。それが、海に出る理由でした。

 時々、日本からガラさんがハワイに来ていました。ガラさんは、湘南では有名なレジェンドのサーファーです。もう、70歳ぐらいですが、今でもしょっちゅうハワイに来てサーフィンしています。奥様はアメリカ人で、シアトルで暮らしておられるのですが、ガラさんはほとんど日本に住んでいます。とにかく伝説的な人です。
 
 ある時、ガラさんと一緒にサーフィンしていました。
「サーフィン、上手くなったなぁ」
と少し褒められました。それは、私にとって、本当に嬉しかったことです。ガラさんに認められるというのは、それだけ価値があることだからです。ちなみに、私の父はサーフィンをしません。どうも、怖いらしいです。シーカヤックでは、波に乗らない技術を磨くんだ、と言い訳します。
 
 毎日、海へパドルアウトすると、サーフィンの素晴らしさが、少しずつ理解できてきました。実は、日本にいる時は、それほどサーフィンが好きではありませんでした。高校生の時に何度か学校の前で試したのですが(ちなみに私が通った七里ガ浜高校は、サーフポイントが目の前にあります)、それほど面白いとは思わなかったんです。でもハワイに住んでいるんですから、サーフィンしないなんてありえないと思い、始めてみました。でも、「これ、大変なだけじゃん」と思っていました。
 
 それでも、一度決めたことだし、毎日めげずにやっていたら、少しずつ楽しくなっていくのです。なんでこんなにたくさんの人がサーフィンに魅せられているのかも、少し理解できるようになっていました。それと同時に、ハワイの海のことも、少しずつ理解できていると実感してきました。私にとってサーフィンは、海との再会だったのです。とはいっても、サーフィンの素晴らしさを説明するなんて、まだ私にはとても無理です。
 
 ハワイに来て2年半後にKCCを卒業しました。その後は小型ボートの建造と修理技術の専攻がある、ホノルル・コミュニティ・カレッジ(HCC)に編入しました。HCCもKCCも州立ハワイ大学の傘下にあるコミュニティ・カレッジです。
 
 HCCでは、ボートやカヌーを作ることや修理するための技術を学びました。ウッドワーキング(木工技術)からFRP(強化プラスチック)技術、電気系統に関する技術、エンジンの構造や修理方法、フォークリフトやトラベルリフトというボートを海に入れる機械の操作までやり、船に関する基礎のほとんどを勉強しました。
 
 このクラスに女の子はいませんでしたが、男の子たちも、私もまったく気にすることなく、楽しく学んでいました。途中から、私に男の子的なジョークなども投げてきましたが、負けずにやり返しました。普通、女の子がワクワクするような、化粧品や洋服なんかの買い物も、もちろん大好きですが、男の子がウキウキする、ハンドツールや工具も大好きになりました。ちなみにお気に入りのツールブランドは、スナップ・オンです。
 
 学校の授業が終わった後は、仕事とホクレア号のメンテナンスをやっていました。HCCのこのクラスが行なわれている、マリン・エジュケーション・トレーニング・センター(METC)は、ホクレア号の母港なのです。METCに日本人の女の子が通い始めたのは初めてだったのと、私がホクレア号のことを学びにハワイにきた話がウケたようで、ハワイ大学の雑誌で紹介されたこともありました。

 私には、会ったことはないけど、ハワイ出身の曾おばあちゃんがいます。ハワイのカウアイ島で生まれたけど、アメリカにハワイが侵略された頃、曾・曾おばあちゃんが、日本に連れて帰りました。
 
 それで、曾おばあちゃんはハワイに戻ることはなく、日本にも馴染めず、当時日本と関係の深かった満州国に行き、そこで結婚をしました。でも、結婚した相手が亡くなり、長男も亡くなり、長女を連れて日本(熊本)に戻り、熊本の沖合にある天草諸島の牛深(うしぶか)で暮らしていたら、私の曾おじいちゃんと出会い、再婚しました。
 
 曾おじいちゃんは、薩摩(鹿児島)の人で、警察官として優秀だったので、満州の首都(新京)の警察のトップになりました。それで、曾おばあちゃんは、再び満州に行きました。私のおばあちゃんは、満州に行く前、天草で生まれています。曾おばあちゃんは、すでに満州の言葉がしゃべれていたそうです。

 2008年にハワイへ行く前、父が熊本に連れて行ってくれ、そこで曾おばあちゃんが、ハワイから戻って来た時に暮らしていたところへ行きました。すごい、田舎でした。しかもまだ、当時のお墓の石が、竹林の中に残っていました。
 
 私が、ハワイに行ったのは、そういう家族の歴史があったからかもしれません。ホクレア号での初めての旅は、曾おばあちゃんが生まれたカウアイ島でした。もしかしたら彼女が私をハワイに導いたのかもしれません。
 
 とにかく、私はハワイで、色々なことを学びました。特にホクレア号からは、生きていく上で大切なほとんどを今も学んでいます。カプ・ナ・ケイキの仲間たち(一緒にホクレア号の訓練をしている同世代のチーム)と、普通にケンカができるような、信頼ある間柄にもなりました。彼、彼女らは、私にとって血はつながっていないけれど、本当の兄弟、姉妹のような存在です。

 METCで学んでいた2012年9 月、ホクレア号の世界航海のための新しい伴走用のカヌーが、ニュージーランドで建造されます。そのカヌーがヒキアナリア号です。ヒキアナリア号は、建造後にハワイまで回航しなければなりません。私は、なぜかクルーに選ばれました。そこで、学校を中退し、ニュージーランドに行く決心をしたのです。
 
 私はこれまでも、直感的に道を選んできたようです。それが後悔しない道だと、どこかで思ってるんでしょう。学校は、いつもそこにあるけれど、こんな機会は次にはありません。キャプテンを務めることになったブルース・ブランケンフェルドさんに「来ないか?」と聞かれた時、迷いなく決心していました。ブルースさんは、ハワイに5人しかおらず、世界でも数えるほどしかいない、伝統航海術を修得したPWO(ポー)という称号を持っているナビゲーターです。このポーという称号は、ポリネシアではなく、伝統航海術を現代まで伝えていたミクロネシアの言葉です。
 
 ということで、2012年9月、私はヒキアナリア号をハワイまで回航するクルーとして、ニュージーランドへ旅立ちました。学校を中退したので、学生ビザも切れてしまい、ハワイに上陸する時は、観光ビザでの入国になります。学生として学んだハワイとは、この時点でお別れすることにしたのでした。そして、いよいよ、太平洋という広大な海を、私は初めて旅することになるのです。

(2014.12.18)

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