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第7回 ある日のスタジオから エピソード1~さようなら、ミス・アメリカン ・パイ<後編>

「Empty Chairs」も収録されているアルバム『AMERICAN PIE』 
2003年紙ジャケ再発盤 <米CAPITOL>

 TV『スパイ大作戦』や映画『燃えよドラゴン』のテーマを初めとする多くの作品で知られる、アルゼンチン生まれの音楽家ラロ・シフリンは共作者のひとりだったノーマン・ギンブルと共にブロードウェイ・ミュージカルを手掛けようと試みるが形にはならなかった。ただし、シフリンからもらったアルゼンチンの小説に出てきた、主人公がバーでアメリカ人ピアニストの曲を耳にするシーンを読んで、ギンブルはその曲のタイトルを気に入りアイディアを書き留めるノートに記す。「Killing Me Softly With His Blues」をちょっとだけ変え、「Killing Me Softly With His Song」と。

 1971年のある晩。ロス・アンジェルスのライヴ・ハウス=トゥルバドールでステージを観た女流シンガーソングライターのロリ・リーバーマンは、そこで「Empty Chair」(LP『アメリカン・パイ』に収録)を耳にし、自身に重なる切実なものを強く感じて、その深い感銘を詩にした。そんな体験を聞いたギンブルが、その感覚を作品化しようと書いた歌詞にチャールズ・フォックスが曲をつけ完成。以前ノートに記したタイトルで71年暮れに録音される。だが72年初頭に発表されたロリの歌では注目されなかった。ヘレン・レディに送られたデモ・レコードは、タイトルが彼女に疎んじられ、聴かれることなく数ヶ月ターン・テーブルに乗ったままで終わる。しかしその後、その曲は別の運命をたどるのだ。

 ロサンジェルスからニューヨークへ向かうTWAジェット機上、イヤフォンで機内放送を聴きながら備え付けの機内誌に眼を落としたロバータ・フラックは、ロリとその曲について書かれた記事を見つけた。彼女のことは何ひとつ知らなかったロバータが、まず関心を抱いたのは同じ表現者として音楽にそこまで突き動かされたロリだった。曲を耳にする前にそのタイトルに心を奪われ、実際に聴くと一層惚れ込み、自分ならさらに何かを加えて完成させられると感じて、3ヶ月のスタジオ作業の末に録音を終える。

 ロバータとこの曲の出会いにはもうひとつ異説がある。機内のオーディオ番組で耳にしたロリの歌に衝撃を受け8回か10回繰り返して聴いたロバータは、着陸するなりクインシー・ジョーンズに電話で依頼してチャールズ・フォックスと連絡を取り、2日後には正式な音源を手に入れ、ほどなくジャマイカのキングストン/タフ・ゴング・スタジオで自分のバンドと共にリハーサルするも、そこでは録音せず。72年9月にロサンジェルスのグリーク・シアターでマーヴィン・ゲイのスペシャル・ゲストを務めたロバータが、予定のアンコールを終えたところでマーヴィンからもう1曲歌うように言われ、”録音しようと思ってる「Killing Me Softly With His Song」というのがあるんだけど”と伝えると、それを演れと促されて披露。観客からの熱狂的な反応を得た。駆け寄り抱きしめたマーヴィンは、”ちゃんと録音するまで2度とステージで歌っちゃいけない”と言った、とか。細部の描写から、後者により真実味が感じられるがどうだろう。

 そうして世に出されたシングルは、73年2月末から4週王座を独走し、一度オージェイズの「ラヴ・トレイン」に譲るも返り咲き計5週全米第1位を記録すると、グラミーの最優秀レコードと最優秀ソングをも獲得した。そう、「やさしく歌って」である。そして、ロリがそのきっかけとなる詩を書いたときに観たステージに立っていたのが、ドン・マクリーンであった。フレッド・ブロンソンの名著『THE BILLBOARD BOOK OF NUMBER ONE HITS』では、そのときロリが耳にし「やさしく歌って」に結びついたのは(「Empty Chair」ではなく)「アメリカン・パイ」とされているが、いずれにせよ”his song”のhis=彼とはマクリーンのことである。

 私はひとりのポップス・ファンとして、こういう話にとても弱い。自分に特別な感情を生み出してくれた表現がどのような源流を持っていたのか知ると胸躍り、惹き込まれてしまうのだ。ディスク・ジョッキーになったことで、そうしたエピソードを番組で紹介し、伝える喜びをも知ってしまったのだから余計に始末が悪い。

 さて、「アメリカン・パイ」がいったい何を歌った曲だったか。それをもう少し理解できたのは、ぐっと最近のことになる。愛読している月刊『レコード・コレクターズ』誌上のジョージ・カックルさんの連載”アメリカン・ロック・リリック・ランドスケイプ”(*)で、この歌が取り上げられたお陰だ。語句の訳出だけでは伝わり難かった作者=マクリーンの意図を、カックルさんの適確で解りやすい解説が鮮やかに表してくれた。以下は私なりの要約であり、興味をお持ちの方には『レコード・コレクターズ』誌のバックナンバーなどでの一読を薦める。
 歌は、作者が少年時代だった、音楽がまだ人々にシンプルな楽しみを与えていたころの回想から始まり、2月の”音楽が死んだ日”に少年の心が揺さぶられ、ロックン・ロールや音楽そのものが何をなし得るかを提起する。ダンス・パーティーでフラれた孤独でR&Bが好きな男の子の視点で、エルヴィス・プレスリーとボブ・ディランを王様と道化師に喩えたロックの変化や、ビートルズやザ・バーズらによるドラッグ・カルチャーとベトナム戦争時代との関連、宇宙へと馳せた夢の雲散霧消などを経て、地獄の天使の力では壊せなかった悪魔の魔法の火が生け贄を照らすまでの10年間が綴られていく。ハイライトとなる地獄の天使の箇所は、護衛隊だったはずのヘルズ・エンジェルスが観客の黒人青年を刺殺した、ローリング・ストーンズのコンサート会場でのいわゆる”オルタモントの悲劇”を示唆していて、愛と自由と平等を標榜したロックの時代の決定的な敗北と終焉を描いている。それが起きた69年12月6日を、もうひとつの”音楽が死んだ日”であるとして。繰り返される”さようなら、ミス・アメリカン・パイ”のアメリカン・パイとは、この国で最も一般的なデザートに象徴させたアメリカ合衆国そのものであり、歌全体が表現しているのは10年間で母国が正義/純朴/無垢といった価値観を喪失してしまったことである。バディ・ホリーの「またいつの日か/That’ll Be The Day」になぞらえて、「アメリカン・パイ」は”This will be the day that I dieーこんな日が来るなんて思いもしなかった”と締め括られる。

 これは私が知る中でも一際壮大な全米No.1ソングだ。もちろんこれらは解釈のひとつであり、おそらく個々に異論はあるだろう。けれど曲解や誤解であっても表現が与えた波動は、受け取った人の心に次の波動を生む。「アメリカン・パイ」の圧倒的な感情の表出力は、きっと同様に音楽で何かを描き出そうとする多くの才能を刺激し鼓舞し続けているはずだ。だからラジオは「アメリカン・パイ」(のような作品)を届け続けなければならない。「アメリカン・パイ」に巡り会えたことと、この歌をラジオで紹介できる幸運に、私は感謝している。

*『レコード・コレクターズ』(ミュージック・マガジン社) 2012年8月号と9月号の2回にわたり掲載。

(2014.03.11)

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