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こんにちはさようならHOLARADIOS~矢口清治のラジオDJ的日々~"

第6回 ある日のスタジオから エピソード1~さようなら、ミス・アメリカン・ パイ<前編>

 私が生まれた1959年は、”ロックン・ロールが死んだ年”とされることがある。リトル・リチャードが一時引退(57年)、エルヴィス・プレスリーが兵役で陸軍に入隊(58年)、13歳の従妹との婚姻でジェリー・リー・ルイスが実質的追放(58年)などで当代の人気者がシーンから姿を消し、若年層への悪影響を懸念した排斥運動もあって、ロックン・ロールそのものが社会から駆逐されそうな時代背景の折に、59年2月3日の飛行機事故でバディ・ホリー、ザ・ビッグ・ボッパー、リッチー・ヴァレンスという3人の大スターが死去する大きな悲劇が起こった。そして、その日を”音楽が死んだ日”と表現した歌が、全米第1位に輝いたのが72年1月のことだ。その歌は何を歌っていたのだろうか?

 私が現在担当している名古屋ZIP FMの番組『FUN☆TASITC』に今年(2014年)2月2日の放送宛にHAさんというリスナーから届いたのがその曲、ドン・マクリーンの「アメリカン・パイ」へのリクエストだった。あいにくその週はグラミー賞結果特集などで立て込んでいたので、不本意ながら2月9日の放送でおよそ15分間を割いてお応えした。1曲の紹介に15分とは、少々長いと思われるかもしれない。だが、「アメリカン・パイ」は特別な曲なのだ。

 私が最初に耳にしたのは、おそらくラジオ関東時代の『全米トップ40』をいちファンとして愛聴していたころだ。以前述べたように74年末の年間チャートから本格的に聴き出したので、従ってリアル・タイムではない。当時番組ではアナウンサーの坂井隆夫さんが全米LPチャートのトップ10を読み上げてくれていて、そのBGMとして使われた1曲だったのかもしれない。LPチャートのBGMは佳曲ばかりで、そのパートを通じてダン・ヒル・サウンドの傑作だったグラス・ルーツの「恋は二人のハーモニー」やハミルトン,ジョー・フランク・アンド・レイノルズの「恋のかけひき」、そしてファースト・クラスの「ビーチ・ベイビー」などすべて生涯のお気に入りになるものと巡り会えた。すごく感謝している。後年、それを坂井さんに伝えて、どうやってBGMを決めていたのかを訊ねたら、ただ好きな曲を使っていたと教えてくれた。誰かが好きな曲だったから別の誰かも好きになるーそれはラジオの持つ特別な力のひとつだ。

 私が「アメリカン・パイ」を手に入れたのは、『全米トップ40』で働き出して、番組のプロデューサー/ディレクターだった岡田三郎さん<故人>のお宅にレコード整理の手伝いでお邪魔した折に、シングル盤をもらったからだった。ドン・マクリーンが当時所属していたユナイテッド・アーティスツ・レコードの、日本での販売を行なっていたキング・レコードが出した国内盤の、いわゆるサンプル<見本盤>だった。マクリーンが突き出した左手の親指に星条旗が描かれている、同名アルバムのジャケット・カヴァーと同じ写真をあしらったスリーヴ・デザインが、とても印象的だった。LP収録のものは8分を超える長尺故、シングル化に際しパート1/パート2に振り分けられ、A面が曲の途中でフェイド・アウトしてB面はその続きからフェイド・インしてくる。60年代からソウル・ミュージックのシングル盤などでは常套となっていたスタイルを踏襲したということは後で知った。70年代初頭よりアメリカで急激に伸長したFMラジオ局では、曲の長さをそれほど気にせずLPからフル尺でオンエアしていたそうだが、これも後年、72年の本国ヒット時にアメリカ在住で実際にラジオでこの曲を聴いていた山本さゆりさんから、シングルA面のフェイド・アウト後DJがトークで繋いでいる間に面をひっくり返してパート2が紹介されたりもしたそうだ。岡田さんも、もちろんこの曲をお好きでいろいろ教えてもらった。たとえば、4週もの全米No.1を記録し当時としては異例の大ヒットとなったのは、計8分以上の時間に詰め込まれた大量の歌詞が、アメリカに関する多岐にわたる事象について比喩を駆使し表現しており、難解であるにもかかわらず多くの共感を集めたのだということ。歌詞に対しての作者のこだわりは大きく、(この件は未確認だが)マクリーンが来日時に日本盤LP付帯の対訳が作品の意図を反映していないと知って外すよう要請したらしいこと。たしかに単語の字面だけで意味を追っても、何が何だか解らない歌詞だった。

 私は、ノー・イントロのシンプルなフォーク・スタイルで始まり、途中からアコースティックながら猛烈なドライヴ感を伝えるアップ・テンポとなり激流の如く言葉を連ね、最初のイメージをなぞるように静かに終わるこの曲を、単純にアメリカン・ポップ・ヒットとして大好きだった。LPのフル・ヴァージョンでも聴きたくて盤を探したが、輸入盤や中古盤という手段に馴染みがなかったこともあり容易に手に入れられなかった。81年3月には東京・渋谷にタワーレコードが開店し、この辺りのアイテムはぐっと買いやすくなっていたのだが。同年夏、人生初の海外旅行で1ヶ月半のアメリカ・ウルトラ貧乏ツアー(この旅に関してはいずれかの機会に)を敢行し、ニューヨークを訪れブリーカー・ストリートのレコード店でLPを購入できたときは、粗雑な厚紙ジャケットの廉価再発盤だったけど本当にうれしかった。ディスク・ジョッキーとして、以来数度この曲を番組でも紹介してきた。だが、「アメリカン・パイ」で歌われていることを曲がりなりにも理解できたのは、さらにずっと後のことだ。           

後編につづく

(2014.02.14)

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