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第5回 極私的ディスク・ジョッキー考 その2 DJであるには…

    (Special Thanks to GRAND-FROG STUDIO)

 (前回よりつづく)
 いかに自分の仕事は”ディスク・ジョッキー”であるという認識にたどり着いたのか。人は社会的な生き物だから、どうしても他者とのつながりを必要とする。とりわけ私のようにインディペンデントー独立していると言えば聞こえはいいが、むしろ寄る辺のないーな仕事の仕方を続けているとなおさらだ。所属団体を持たない身としては用事があって電話しても”どちらの矢口さんですか?”と怪し気な人物に思われがちで、そんなとき手っ取り早く自分の立場を伝える肩書き的な職業名はないかなあと常々思っていた。いよいよ個人で名刺を持たねばならなくなった際に用いたのが、ディスク・ジョッキーである。まあ、前回述べたように、この言葉は会計士や運転手あるいは警察官などに比べて具体的な業務内容を解りやすく伝える点ではかなり、弱いのだが。これも前回述べたように、ディスク・ジョッキー=ラジオでしゃべる人という図式も、通じたのは70年代半ばくらいまでだろう。

 それでも自分の”職業”がディスク・ジョッキーであるという認識にたどり着いたのは、その肩書きに崇高で特別なものを込めると言ったことなどでは実はなく、多くのラジオDJをこなしている方々のように他にすぐれた仕事を持った上で”行為”として番組も担当できるような有名人になることは、私はきっとないだろうと思ったからだ。ありゃ、ラジオとディスク・ジョッキーに誇りと自負を以て臨んでいる男の心意気みたいな文言を期待してたあなた、ごめんなさい。そうではあるけれど、ディスク・ジョッキーたるは、願わくばかくあるべきという、自分なりに保ちたいスタイルのようなものは、仕事を続ける中で築かれてきた。そのひとつをここで挙げるならば選曲と構成/演出に可能な限り関与することだ。たとえばそれが、私がこれまで携わることのもっとも多かった、新旧の洋楽ヒットを紹介するラジオ番組であるならば、パーソナリティーやナレーターと、ではどう違うのかと考えたときに、曲とその順番、そしてそれがどのように流れるかを自分で決め、話すことを自分で考えるのがディスク・ジョッキーだと思うからである。

 映画『アメリカン・グラフィティ』(73年)のウルフマン・ジャックから、あちらではDJが自らお皿(レコード)を回してしゃべるいわゆるワンマン・スタイル(日本でも糸井五郎さんが先駆的に実践された)が普通で、それがカッコいいというイメージが強いかもしれない。だが、本場アメリカでも、すでにディスク・ジョッキーに選曲権はほとんどないようで、それは歴史をひも解けば50年代末から60年代初頭の、アラン・フリードの失脚を象徴とするペイオラ・スキャンダル(注*1)まで遡ってその経緯を辿れるし、FM局が隆盛を極めていく70年代前半以降のPD(プログラム・ディレクター)制普及を促進したフォーマット(注*2)主義的な編成は、今日選曲システムのコンピュータ化にまでたどり着いている。ジム・ピューターやチャーリー・ツナのような伝説的なラジオ・ショーは、もう存在できないのかもしれない。

 極言すればラジオの番組制作現場は3人で成り立つ。ディレクターとミキサー、そしてDJである。ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス、クリーム、ポリスからキャンディーズ、パフュームまでトリオと言うのは最強のスタイルなのである(暴論を極めてみました)。冗談はさておき、人数が少ないと責任も明瞭化されやすい。ラジオ番組は、開始・継続・終了が、かなり様々で複雑な事情により突然決まるのが普通だ。そこで番組に本当の意味での優劣や支持不支持を問うのは、不毛なのかもしれない。だからこそ、与えられた機会を悔いなく活かし、いかなる評価であっても受け止めるには、その番組をその形にすることを自分が決めるのが大切なはずである。誰の失敗でも誰の功績でもなく、自分がそれを導いたと思えるからこそさらに先に進めると考えている。そして、それはまたおそらくラジオ番組に限ったことでは、きっとない。

この項いったん終り(またあとでつづくかもしれません)

(2014.01.21)

*1 ペイオラ・スキャンダル…50年代末からアメリカで若者の間でロックン・ロールの大ブームが巻き起こったのを背景に、その火付け役だったラジオのディスク・ジョッキーに対し、レコード会社が金品や(作者クレジットを与えて)楽曲著作権を譲渡するなど便宜を図り、自社のレコードを放送で紹介させたことから発生した贈賄スキャンダル。支払い<pay>と著名レコード・プレイヤー・メーカー/製品=ヴィクトローラ<victrora>の造語。放送界における”ロックン・ロールの父”的存在だったDJアラン・フリードは有罪判決を受け失脚のきっかけとなる。もう一方の雄ディック・クラークは大過を逃れ伝説を築く。

*2 フォーマット…アメリカにおけるFMラジオ局の極端な多局化は、音楽ジャンルによって選別される専門局化に結びつき、いかなるスタイルの音楽を主に放送するかでロック、ポップ、カントリー、R&B/ソウルなどに分けられた。それぞれをフォーマットと呼ぶ(例:カントリーのフォーマットを採用した局など)。今日は各ジャンルをさらに細分化したフォーマットで選曲が施されている。

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