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内田正洋 内田沙希 シーカヤックとハワイアンカヌー 海を旅する父娘の物語 photo by James Hadde

第15回 初めての太平洋横断〜続編〜

 今回からまたハワイのカヌーに話を戻したいと思います。
 
 最後にハワイのカヌーのことを書いたのは、2012年の私の初めての太平洋横断についてでした。アオテアロア(ニュージーランド)からタヒチ到着までのことを書きました(第7回「初めての太平洋横断」を参照)。もう5年も前の話になってしまうのですね。時が経つのがこんなに早いとは。特に何かが終わるとき、時間とは一瞬で流れてしまったように感じます。
 
 5年前、私が思っていたことを日記を見ながら思い出して、みなさんに伝えたいと思います。
 
 5年前の私は、トレーニングをしていたからといって、まだまだ“航海”ということを何も知らなかったと思います。ニュージーランドからタヒチ区間はすべてを覚えるのに必死でした。カヌーの上に「24/7」いるのは初めてのことでしたから(トゥエンティフォー・セブンとは24時間7日、ずーっという意味)。そして私は船酔いにもなります。カヌーに初めて乗った頃は全くなかったのが、だんだん居心地がよくなるにつれて、船酔いするようになりました。慣れって怖いですね。正直初めの数日は辛かったです。船酔いになっても学びたいし、病気ではないのでみんなに迷惑はかけたくなかったので、船酔いと認めないでウォッチをしていました。薬も持っていなかったので、もうちょっと船酔いに対しての準備もしていればよかったなと思いました。
 
 ニュージーランド — タヒチ区間と違ってタヒチ — ハワイ区間のクルーは、前の区間の私のように長距離の外洋航海が初めてのクルーがたくさんいます。ここからは、前のクルーが教えてくれたように、私も新しいクルーが少しでもリラックスして、早くカヌーに慣れるように手助けしていきたいと思いました。それ以外にも自分の中では、このハワイという私の第二の故郷のような場所に帰る旅で、もっとナビゲーションに触れていきたいとも思いました。今回もポゥ・ナビゲーターが乗ります。彼にはホクレア号が2007年に来たときにお世話になりました。そのときから、私のことを知っていてくれるオノヒ・パイションさんです。
 
 初めてのタヒチ島は、一週間ほどの停泊でした。次の航海に向けた準備以外の時間は全くと言っていいほどありませんでした。なので正直、タヒチの本当の姿を(どっちにしろ、一週間で本当の姿を見るのは難しいとは思いますが)見る時間が全くなく、ほとんどが首都のパペーテにいました。泊めてもらっていた教会からカヌーへの15分の往復がほとんどでした。パペーテは都会で、自分が思い描いていたタヒチとは違いました。都会ではありましたが、野良犬がたくさんいました。でも、あったかい気候のせいか、のんびりな野良犬たちでした。現在も水状況はあまりよくないタヒチ。水道水は飲めません。シャワーもお湯が出ないところがほとんどでした。そして、トイレになぜか便座がなかったり、フランスパンをそのまま持って歩いている人がいたり、英語が通じなかったり、お酒が買えない曜日があったり、これも初めての経験でした。
 
 タヒチの人のイメージは、みんなとても明るくて気さくで笑っていて、いつも歌を歌っているような感じです。とても暖かい人たちです。到着したときの歓迎パーティーでいただいた「ポエ」という食べ物がおいしくて忘れられません。タピオカの粉とフルーツを混ぜた、わらび餅に似た食感のデザートです。
あとびっくりしたことがありました。タヒチに行ったら絶対ほしかったブラックパールを買いに行ったときのことです。お店でたくさんのパールがでてきて、そこから自分の好きな色や形を選んで買うことができるのですが、そのお店で買い物をしたときに、自分の名前をサインすると、“あなた、さきっていうの? 私のお母さんと一緒の名前!”と言われました。聞くと、彼女のお母さんのお父さんがタヒチに移住した日本人で、当然お母さんには日本人の血も入っていると。まさかタヒチに、自分と同じ名前の人がいるなんて思いもしませんでした。ハワイでも出会ったことがなかったのに。タヒチがすごく身近に感じた瞬間でした。

 タヒチを出発するとき、「ウルア」という魚がヒキアナリア号の下を泳いでいたそうです。ハワイの昔の風習では、男が男になるのを試されるときに、このウルアという魚を捕まえるらしいのですが、私達も何かを試されるときなのかもしれないと、その話を聞いて思いました。
 そしてついに外洋に出るとき、ニュージーランドから一緒に旅をしたファアファイテ号が見送ってくれました。ここまで一緒に旅をしたカヌー、そしてタヒチアン・クルーとの別れです。仲良くなったタヒチアン・ガールたちともここでお別れ。最後にホクレアの「アイハア(マオリ族のハカのような踊り。詳しくは第11回「白く長い雲の島へを」参照)」をカヌーの上で披露しました。だんだんタヒチが小さくなっていきます。初めて航海をして、たどり着いた島タヒチ。またね。そんな風にみんなが感傷に浸っているとき、魚がかかりました。フィッシャーマンのケアラはすぐさま釣り糸のところに行き、手繰りよせようとしましたが、その瞬間、ケアラが糸と一緒に飛び上がって、転落。ぎりぎりのところで、海ではなく、船の船尾の上に落ちたのですが大事件。すごい落ち方でした。魚がすごく大きく、魚釣りには慣れていたはずのケアラがこんなことになりました。足全体を強打したみたいでした。すぐにドクターが診てくれて、骨は折れてはいないようで、安静にしていれば大丈夫とのことですが、かなり痛そうです。出発当初の事故で、クルー全体がかなり緊張した出だしとなりました。

 私のウォッチ(見張り)は、全員が伝統航海カヌーでの外洋航海が初めてのクルー。ウォッチ・キャプテンはヨットの経験があるお姉さんのナハク。カメハメハ・スクールの先生のマーク。そして、今回のクルーで一番経験が浅い、メインランド出身でお母さんがパナマ人のダリアンです。前回の航海では、女の子は二人。今回は半数が女の子のクルー。私たちのウォッチはマーク以外全員女の子。力仕事はマークに期待です。

 夜の10時から朝の2時までウォッチをこなし、5時の日の出に起きて、日の出を観察します。正直眠い。でもナビゲーターになるには、“寝ない”に慣れなければいけません。ポゥ・ナビゲーターのオノヒさんはナビゲーションはもちろん、ハワイ語や文化についてたくさんの知識を持っている方です。そしてミュージシャンでもあります。彼からはナビゲーションのことだけでなく、たくさんのチャントを教えてもらいました。それから、寝むらずに起き続ける練習をしてみたらどうだ? という提案もされました。

 初回のクルーに比べて経験が少ない今回のクルー。ケアラの怪我など、ハプニングはあったけれど、それぞれが自分なりに日々、海の生活に慣れていくのがわかりました。ただ、私たちのウォッチのマークは、3日経っても船酔いが抜けません。毎回のウォッチには参加していますが、いつも辛そうにしています。彼はいつも風下の椅子に座って、海の方に顔を向けていました。大体の人が3日も経てば船の揺れにもなれるのですが。
 
 タヒチを出て4日。ずっとスコールもなく、いい風が吹き続けました。でもそんなときに限って、スコールは突然やってきます。真っ暗な雲が見え、近づいて行くと、その雲に入る前にすでに大きな風がきます。そして、土砂降りの雨。めちゃくちゃな方向からの風。やっとその雲を抜けると、いきなりページをめくられたように、今までとは全然違う方向から風が来るようになったりします。
 
 旅の途中、私の所属しているチーム「カプ・ナ・ケイキ」の仲間のことを考えました。今までずっと一緒だった仲間。彼らから離れて航海することは、私にとって大きなチャレンジです。なんでも話せるそんな仲間だからこそ、カヌーの上にいないと、本当に困るなぁと思いました。彼らと、早く長距離の航海がしたいと強く思いました。そのためにも、今自分が吸収できることはすべて吸収しないと。
 
 ケアラの怪我がそれほどひどくなかったのは幸いでした。3日間ぐらいは歩くときも痛そうだったけれど、毎日の釣りだけは欠かさずやっていました。ちなみに彼は、私の職場のおじさん。日系ハワイ人。メカニックに詳しく、彼からは船のエンジンから車のエンジンのこと、フォークリフトの操縦、クレーンの操作、サーフィンと、いろいろなことを教わりました。
 そして、彼はすごいフィッシャーマンだということを、この旅で知りました。毎日最低一匹、多い時は二匹同時に釣ってしまうのです。航海中、私たちが大好きな瞬間は何回もありますが、魚が釣れるときもそのひとつです。カヌーの上ではだんだんと新鮮な食べ物はなくなっていきます。そうすると、ドライフードや缶詰なってしまうので、魚は一番新鮮な食材です。釣れるたびに心で、海の神カナロアへ感謝を忘れず、食事の前はみんなで「プレ」をします(プレはお祈りのことなのですが、そのお祈りが長いのです。その点、日本語の“いただきます”はなんと素敵な言葉なんだと思います。一言で終わるのですから! ちなみにコックのケリーは日系人なので、私たちがお祈りをするときは、“いただきます”と言います)。
 夜、魚を見てびっくりしたことがありました。ケアラが釣って、ケリーがさばいた刺身がキッチンに置いてあったのですが、なんとその刺身が光っていたのです。海の上の夜には、よくあることだけれど、カヌーに当たる波に夜光虫がいて、キラっと蛍光グリーンに光ります。きっと刺身になった魚が夜光虫を食べていたのでしょう。私たちの体の中に入っても光っているのかな? なんて思いました。

 前の区間よりも、少し自分の中で余裕がでたのか、いろいろなことを航海の間に考えました。ひとつは“死”について。カヌーの上では死というものがリアルに横にあります。一歩間違えて、海に落ちれば、もう見つけられない状況になることもあります。太平洋の真ん中で大怪我をしても、救急車は来ません。カヌーの上でドクターができることはかなり限られていいます。そう思うと、私たちのとなりにいつも死というのがあるのです。ここにいるみんなもいつかはいなくなるのだな。何のために人は生きているんだろう? なんてことも考えていました。
 
 なかなか陸ではそんなことを考えなかった私だったので、日記を見た時に不思議に思いました。死は人生の中で当たり前に起きることで、とても自然なことです。でも、どうしても人は死というものを暗く悪のように捉えてしまう。私は最近大切な人を亡くしました。カヌーの上で生きているときは、死がとなりにあるからこそ、毎日を精一杯、後悔しないように生きています。その日、自分ができることは全部する。でも、陸にいるときは、そんなことを考えながら生活をしていませんでした。また明日がある、明日でいいや。
 カヌーでそのことを学んでいたからこそ、その大切な人との時間に後悔はほとんどありません。もちろん、まだまだその人とたくさんの夢を思い描いていたから、それができないこと、とても辛いし、悲しいです。でも、それは“後悔”という感情とは違うように思います。
 
 話が少しずれてしまいましたが、もうすぐ赤道です。初めての赤道越えには興奮が抑えきれませんでした。地球の真ん中にいるんだということ。地球をすごく近く感じる気がしました。ハワイでは「Ka Piko o Wākea」といいます。「ワケア(空の神)のおへそ」という意味です。風がほどよく吹いていたので、赤道にいたのはほんの一瞬でした。地図の上では線が書いてあるけれど、もちろん海にはないので、“うわ〜今通り過ぎた!”という感じでした。一瞬で駆け抜けてしまいましたが、やはり神聖な場所と感じました。どの国も船で赤道を越えるときはしきたりのようなものがあるみたいなのですが、今回は西洋のやり方で小さな儀式をしました。なぜなら、今回のキャプテンはボブさん。彼はカリフォルニア出身で、若い頃からヨットで航海をし、今は造船学校で先生をやっています。ちなみに私は彼から造船の技術を学びました。赤道を過ぎると、どんどん私たちの目指している“ホーム”、ハワイが近づいてきます。

 だんだんと「ドルドラム(無風帯)」に近づいてきました。ドルドラムとは北東貿易風と南東貿易風に挟まれた、風の弱い地帯です。そのときの風などによって、ドルドラムは移動するようですが、だいたい、赤道より少し北側にあると言われています。昔ホクレア号がここを通過しようとしたとき、本当に全く風がなくなってしまったそうで、一週間ぐらい、ただ浮遊していたそうです。なので、航海プランを立てるときは、いつもドルドラムの中は平均の速さを遅く見積もります。でも、風がなくなる気配は今の所はありません。ただ変な形の雲が増えてきて、とても暑いです。そして、風の方向もバラバラで一定ではありませんでした。それでも予定より、かなり早く抜けることができました。そしてついに、キャプテン・ボブがまっすぐハワイ島のヒロに向かうコースに変えました。
 
 それからは飛ぶようにすすみました。ハワイに着く前にオノヒさんに言われた、起き続ける練習を試してみたいと思っていました。少しでも前に進みたいからです。1日通しで起きてみることにしました。ふたつのウォッチもしながら、周りの自然を観察する。簡単なことではありません。そして、ヒロに近づいてきたときに、オノヒさんが日が落ちてきた北の水平線を見ていました。彼はベラベラしゃべる人ではありません。私たちが質問すると、ゆっくり静かにしゃべってくれるような方です。私は彼に“あなたに島はもう見えますか?”と尋ねると“見えるよ”と答えました。でも、私にはただ雲が水平線を覆っているようにしか見えません。私に島が見えたときは、島はもうすぐそこにありました。暗くなってきていたので、島の光がうっすら見えたのです。島はずっと、雲の中に隠れていました。でも彼には島がとっくに見えていたのです。雲の中に。そこに島があるということが。ポゥ・ナビゲーターの偉大さを改めて感じました。
 
 ハワイに着いた時は、とてもほっとした気持ちになりました。無事、ヒキアナリア号をハワイまで連れてくることができたからです。ヒキアナリアにとって、初めての大航海が終わりました。

 今回の旅は、今までトレーニングを一緒に重ねてきたチームのカプ・ナ・ケイキの仲間なしで、航海しました。そこで気づいたことはいろいろありました。今までずっと同じチームでやってきたおかげで、とても近しい兄弟のように思える仲間たち。その分みんなに頼りすぎていたこともあります。私たちが一人一人成長するには、もしかしたら、今回私が経験させてもらった環境を一人一人が経験する必要があるのかもしれないと思いました。いつか、彼らと大航海ができる日まで。

(2017.2.2)

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