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第25回(最終回)  八木誠さん

 八木誠さんと初めて会ったのは、私がラジオの世界に関わり始めて二年目の1979年だったと思う。

『全米トップ40』の収録でラジオ関東(現ラジオ日本)に行った折に、八木さんがいらしていると聞いて、会いに行こうと言い出したのは同僚の大高英慈で、大先輩に挨拶したいという彼にくっついて行く形だった。ソウル・ミュージックの造詣も大変深い八木さんに、ソウル・フリークの大高は「(自分のフェイヴァリットの)ファンカデリックなんかお好きですか?」と訊いたところ、「あんまり好きじゃない」と応えられてガックリきていた。
 私はと言えば、もちろん八木さんの名前もDJスタイルも番組も、そして数々のライナーノーツの文章も知ってはいた。ものの、大高のように胸を張って「ファンです、尊敬しています」というのとは少々違った。湯川れい子さんや坂井隆夫さんに対するのと同じで、洋楽界の、そしてラジオの世界での歴史的人物のように感じていて、直接知り合うイメージがなかなか湧かなかったのかもしれない。そのときすでに大高と一緒に作り始めていたミニコミ誌『PERSONAL MAGAGINE』を、手渡したように記憶している。その後、東京・東中野で開かれた八木さんと日本のポップ/ロック・バンド=ラズベリー・ジャムのイヴェントの手伝いをしないかと声をかけてもらう。そのあたりが大きなきっかけとなって、八木さんにぐっと近づけた。

 八木さんが後輩評論家のUさんをリーダー格に構想して、立ち上げた親睦会がPOP-TOWN <サークル45>(愛称ポプタン)だった。八木さんと親交のある全国のラジオ局洋楽番組関係者に協力を仰ぎ、ラジオから洋楽のシングル・ヒットを生むーそれが会の主旨だ。『全米トップ40』のリスナーからとりわけ洋楽業界に関心が高く熱心そうな人材に目を付けて『PERSONAL MAGAGINE』への寄稿を頼んでいた大学生の友人たちを幾人か誘い、私たちはポプタンのスタッフになった。当初ポプタンは、ラジオでのヒットを狙ったレコード各社からの推しものシングル曲をエントリーしてもらって、会の協力者による投票制で推薦シングルを選定し、業界誌ミュージック・リサーチ誌上のレギュラー・スペースなどで独自のプロモーションを行なっていた。シングル盤のジャケットなどにポプタンのロゴと共に推薦曲マークをいれてもらったりして、少しずつ一般的な認知も図った。私も含め、スタッフはレコード各社の宣伝担当者(プロモーター)と知り合い、やがてライナーノーツの依頼を受けるなど、業界の仕組みを聞きかじり、人脈を得られたのがありがたかった。
 私が82年秋に、初めて自身のラジオ番組『ミュージック・トゥデイ』を担当したのも、ポプタンを通じて知己を得たワーナー・パイオニア(当時)のニッポン放送担当プロモーターだったKさんの推薦をきっかけにしたものだ。ポプタンは次第に同好の士による親睦会から、もう少しビジネス要素を模索するようになり、八木さんが陣頭指揮を執って、全国の主要洋楽番組のステーション・チャートに楽曲オンエア状況、首都圏民放局の洋楽曲オンエア回数、そしてミュージック・リサーチ誌(後にオリジナル・コンフィデンス誌に変更)によるセールス・データを統合したランキングを作成し、個々の具体的データ数値も記載した、いわば独自のラジオ・マーケティング資料を毎週発行して、レコード各社から運営資金の援助を受けるスタイルへと移行する。アメリカにおけるRADIO & RECORDS誌とまではいかないが、より詳細にラジオ動向に特化したデータ・リサーチ紙=FMQBあたりをモデルにすることで、私にはこのビジネスに可能性があるように思えた。
 残念ながら事業は会社化するほど軌道には乗らず、参加者それぞれの意向を汲むような力添えが難しかった点もあり、発展の見込みを危ぶんだスタッフの離脱が続く。かくいう私も、ポプタンにおいて八木さんの右腕を自負したこともあったものの、ある時期に意欲を失い(はっきり言えば不貞腐れて)不真面目な業務態度をとるようになった。今にしてふり返れば、八木さんは最大限の親心を働かせてくれたのであろう、そんな私をみてポプタンを離れるよう諭してくれた。1985年春のことだったと記憶する。その年秋から、ラジオ日本で『恋するスタジオ ザ・ポップ』を担当し、ようやくフリーランスのディスク・ジョッキーとしての仕事を続ける道筋のようなものを描けたのだった。

 こうして八木さんとは疎遠になってしまう。だが、八木さんのもとで遮二無二やっていた頃のことは、よく憶えている。
 八木さんが今泉恵子さん(当時)とモンキーズの本『決定版 モンキーズ』を81年に上梓された際に、たしかイギリスのファン・クラブの会報の大意を訳す手伝いをさせてもらえて、そんなプロフェッショナルな仕事に関われるのがとてもうれしかった。八木さんが、当時オブザーバーとして出演されていた文化放送の『全国ポピュラーベストテン』の収録にくっついていって、メイン・パーソナリティーだった川島なお美さん(故人)とお目にかかったこともあった。

 84年春に、八木さんがラジオ日本にて毎週土曜日の早朝7時25分から8時50分というかなりすごい時間帯に、洋楽オールディーズ番組『八木誠の土曜の朝はグラフィティ』を担当した折には、アシスタント・ディレクターに就き、生放送でレコードを回した。LP盤なのに間違えて45回転で放送し、慌ててかけ直したりしたっけ。後年同様の、懐かしの洋楽を中心とした番組を受け持つことになるとは、そのときは思いもしなかったが、ラジオを聴いているたくさんの人たちそれぞれに、心に刻み込まれた大切なヒット曲があることを、私はその仕事でようやく気づけたように思う。
 オンエア後は八木さんを慕うレコード各社のスタッフが、よく集ったものだった(土曜日の朝なのに!)。『土曜の朝はグラフィティ』終了後に、八木さんがやはりラジオ日本で受け持った日本の洋楽チャート番組に参加し、短期間だが選曲構成演出を担当できたのも、自身の番組作りの根幹を築く貴重な機会だった。

 八木さんの僚友としてラジオからの洋楽ヒットにこだわり続けてらした栃木放送(当時)の小田島建夫さんが、ポプタンと同様に業界の親睦と隆盛のために尽力された洋楽研究会の様々な集いにて、キャリア豊富で熱意を携えて仕事に打ち込む多くの方々と出会えたこともかけがえのない大切な経験だった。ラジオ関西(当時)にいらした木元英治さんから、ある夜東京・目黒で飲みながら「聴いている人が心から大切に思えるヒットと巡り合ってもらうために、番組を作るのだ」と聞いたときの胸を揺さぶられるような特別な感情は、私の原点のひとつになっている。

 お酒がかなり好きだった八木さんには、数えきれないほどご馳走になった。ずっとスリムな体型だった八木さんはほとんど食べず、焼き海苔だけで何時間も飲んでいた印象だが、六本木・香妃園の鶏煮込みそばはお好きだったようで、何度も相伴にあずかった。また、六本木の”河童”や外苑の”将軍”、渋谷・神泉の”京”など時期によって馴染みの店があった。そうした席でもしょっちゅう叱られ、いや厳しく指導してもらった。そもそもアルコールにややアレルギーのある母の体質を遺伝的に継いでいる私は、それほど飲めなかったのだが、場の空気と勢いで酒量はぐんぐん増えた。渋谷の道玄坂、次に青山一丁目に構えたポプタンの事務所で業務をしていると電話がかかってきて呼び出される。だいたい親しい業界関係者数人で濃密な談義がなされていて、八木さんは「酒飲むときぐらいは真面目に話そう」と、よく仰っていた。私たち若手が駆けつけると「おお、来たか。何でも頼め」そこで「じゃあ、焼きおにぎりを」などと無粋に言うと、「馬鹿野郎、いきなり締めか!」とたしなめられるのがいつものパターンだった。けっこうな頻度で終電を逃し、ほぼ明け方までごいっしょして、ふらふらになりながら事務所に戻った。そんな、得難い時間を過ごした日々だった。

 八木さんとようやく番組で共演できたのは、TV番組『エド・サリヴァン・ショー』を題材にいわゆるオールディーズ・ナンバーを10時間近い枠でたっぷりと紹介した企画『今日は一日”洋楽ヒット”三昧』(NHK-FM 06年10月9日放送)だった。それからもう一度、私が担当していた『ミュージック・プラザ 洋楽ヒット・グラフィティ』にゲストとしてお招きし、八木さんのポップス体験をふり返ってもらった(NHK-FM 09年3月26日放送)。いずれの回にも全国の熱烈なリスナーからたくさんの反響が届いた。多くがAMラジオの洋楽黄金時代を懐かしみ、ある人は”クリフ(・リチャード)の八木さん“と、ある人は”ソウルの八木さん“と、ある人は”(ベイ・シティ・)ローラーズの八木さん“との再会に歓喜して、堰を切ったようにリクエストとメッセージが押し寄せた。どれほど追っても背中しか見えない姿に、不肖者はあらためて誇りを感じた。

 最後に直接お会いしたのは、八木さんの大変な労作『洋楽ヒットチャート大事典』(小学館)の出版記念パーティーが六本木で開かれた、09年4月9日だった。
 八木さんの人柄や生き方に惹かれてきた人たち、当然業界のお歴々が集い、和やかで寛いだ空気に満ちたすてきな催しだった。”八木チャン八木チャン”と呼ぶみなさんが、八木さんのことを本当に好きなんだとつくづく感じられてうれしかった。

 2011年6月5日の突然の訃報を知り、とにかく焼香をと、私は八木さん宅に向かった。東京スカイツリーを車窓から眺めながら抱いていたのは、驚きや哀しみや戸惑いではなく、なにもない本当にただひたすらに真っ白で空っぽな想いだった。

(2016.07.07)

※本連載は今回で最終回となります。こちらの内容に加筆を加え、再構成した作品を
 電子書籍でリリースします。詳細は、こちらのサイトで随時ご紹介してまいります。
 どうぞ、お楽しみに。(編集部)

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